近江編(72):木ノ本(15.3)

 長浜港に接岸して船から降り、自転車にまたがってホテルへ。丁重にお礼を述べて自転車を返却し、預けておいた荷物を受け取りました。そして徒歩で長浜駅へ、駅前には石田三成の顔はめ看板がありました。近くには電動アシスト付きのレンタサイクルが置かれていたので、駅か観光案内所で借りられるようですね。
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 時刻は午後一時少し前、さすがに小腹がへったので、駅構内にある「かごや」でカレーうどんをいただきました。
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 次の目的地は木ノ本です。以前、賤ケ岳を訪れた時にすこしの時間立ち寄って、北国街道のしぶい宿場町という印象を受けました。今回、あらためて散策しようと考えた次第です。北陸本線に乗って十四分ほどで木ノ本駅に到着。なおひとつ前の高月駅の近くには、ヤンマーの創始者山岡孫吉が生誕地に寄贈したドイツ・ゴシック建築の公民館「ヤンマー会館」があることが後日わかりました。再訪を記しましょう。
 駅構内には「賤ケ岳七本槍の里」「佐吉くん」と記された顔はめ看板がありましたが、これは石田三成の幼名ですね。
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 前回の訪問時に撮影したご当地ポスト図書館もご健在、旧友に再会した気分です。
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 それでは木ノ本の街歩きを始めましょう。瓢箪型の珍しい透かしブロックを撮影してすこし歩くと、「馬宿 平四郎」という看板がかかった起り屋根の古い民家がありました。
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 解説があったので、後学のために転記します。
木之本牛馬市跡
 室町時代から昭和の初期まで 毎年二回この地区二十軒ほどの民家を宿として伝統の牛馬市が開かれた。藩の保護監督もあり地元近江を初め但馬・丹波・伊勢・美濃・越前・若狭などから 数百頭以上の牛馬が集まり盛況を極めた。
 商いの方法は買い手が売り手の袖の中に手を入れ双方が指を握って 駆け引きをし、商談が成立すると両者が手を打ち周囲に居合わせた人たちも拍手をして成約を祝った。
 なるほど、馬喰たちが市のために泊まった宿なのですね。ちなみに、山内一豊の妻・千代が名馬を買ったのもここの市だそうです。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2018-02-02 06:32 | 近畿 | Comments(0)

近江編(71):竹生島(15.3)

 そろそろ出航時刻です。お土産屋さんの前を通り抜け、接岸していた船に乗り込むと、船は一路長浜をめざします。後ろをふりかえると、ひょっこりひょうたん島のような竹生島がじょじょに遠ざかっていきます。
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 そういえば最近読んだ『かくれ里』(白洲正子 講談社学芸文庫)の中に、次のような一文がありました。
 近江に前野隆資氏という写真家がいられる。本人は写真家と呼ばれるのを嫌って、素人だと自称されるが、近江の歴史に精しく、撮影しない景色も美術品もないといっていい。それほど近江という所を愛しているので、写真家といわれるのがいやなのかもしれない。それはともかく、ある日その方が湖北の山中で仕事をしていた。すると突然大雨が降り出し、真暗になったので、撮影をやめて帰ろうとしていると、雷鳴とともに湖水の上の雲が裂け、後光のような光が落ちて来て、暗闇の水面に竹生島が、忽然と現出した。
 「私は夢中でシャッターを押しつづけましたが、あんな強い衝撃をうけたのははじめてです。おそろしいような景色でした」
 といわれる。山と湖にかこまれた近江は、天候が変りやすく、時にはそのような現象が起るのであろう。そういう強烈で、神秘的な光景に、古代人が神の降臨を見たとしても不思議ではない。人界から遠く離れた所に孤立し、そして時々そんな表情を見せる竹生島が、神の島として崇められたのも、故なきことではなかったと思う。(p.87)

 今津で若狭へぬける街道と、北陸道がわかれるが、その辺から竹生島が間近に望める。ツクブスマの命を祭神とするが、最初は浅井姫というこの地方の地主神で、後に観音信仰や弁才天と結びついた。遠くから眺めると、その形には古墳の手本になったようなものがあり、水に浮いている所も、二つの岡にわかれている所も、前方後円墳そのままである。神が住む島を聖地として、理想的な奥津城(おくつき)とみたのは、少しも不自然な考え方ではない。仏教が入ってきて、そこに観音浄土を想像したのも、自然の成行きであったろう。逆にいえば、古墳時代の文化が根を下ろしていたから、仏教を無理なく吸収することができたので、竹生島の美しい姿自体が一つの歴史であり、神仏混淆の表徴であったといえる。(p.179)

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2018-02-01 06:30 | 近畿 | Comments(0)

近江編(70):竹生島(15.3)

 そして舟廊下へ、ここは朝鮮出兵のおりに豊臣秀吉の御座船として作られた日本丸の船櫓を利用して作られたそうです。舟廊下を渡ると都久夫須麻神社本殿です。
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 解説板を転記します。
 本殿は、桁行五間梁四間の入母屋造の檜皮葺、前後に軒唐破風をつけ、周囲に庇をめぐらした建築物です。
 慶長7年(1602)の豊臣秀頼よる復興の際に、元の本殿の外廻りに京都から移した建物を入れ込んだ特殊な構造です。
 両開き桟唐戸、内法長押上には、菊や牡丹等の極彩色の彫刻が施されています。内部の柱・長押等は梨子地で蒔絵が施されています。折上格天井は、菊・松・梅・桜・桃・楓等の金地著色画で、襖の草花図とともに桃山時代後期の日本画壇の中心であった狩野光信の筆と伝えられています。
 残念ながら内陣の拝観はできませんでした。せめて正面扉や長押の見事な彫り物を、絢爛さを偲ぶ縁としましょう。
 本殿の前にあるのが竜神拝所で、湖面に突き出た宮崎鳥居への土器(かわらけ)投げができます。二枚で300円、一枚目に名前を、二枚目に願い事を書き、投げたかわらけが鳥居をくぐれば、願い事が成就するそうです。やらいでか。名前と、目下最大の願い事を記し、コントロールを重視して高橋直樹(古いなあ)をイメージしたサイドスローで、鳥居を狙って二枚続けて投げました。が、二枚ともはずれ。C'est la vie. 安倍上等兵政権はもうしばらく続くのか、やれやれ。
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 そして久しぶりの絵馬ウォッチング。「宝くじが高額当選しますように」 いいですね、山口高志(古いなあ)のような剛速球ですね。「私の生き甲斐となる天職 私に最も適していて不労所得をもたらしてくれる安全で合法的な収入源 私が…」 あーやめた。老婆心ながら、もっと簡潔にまとめないと神様も読んでくれないと思いますよ。
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 本日の二枚です。
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# by sabasaba13 | 2018-01-31 06:35 | 近畿 | Comments(0)

近江編(69):竹生島(15.3)

 それで見学に参りましょう。港から見上げると、斜面に点在する狭い敷地に建物がひしめいている様子がよくわかります。拝観料400円を支払い、「祈りの階段」と呼ばれる165段の急な石段をのぼると(はあはあ)宝厳寺本堂に着きました。
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 竹生島宝厳寺は、724 (神亀元)年聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりだそうです。豊臣秀吉との関係も深く、多くの宝物が寄贈されました。しかし1868(明治元)年に発布された『神仏分離令』によって、大津県庁より、ここを廃寺とし神社に改めよという命令が下りました。しかし信者の強い要望により廃寺は免れ、本堂の建物のみを神社に引き渡すこととなりました。これが「都久夫須麻神社(竹生島神社)」ですね。
 宝物殿、三重塔を経て唐門へ。
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 補修のためシートで覆われ、全貌を見ることができないのが残念。でも華麗で豪壮な彫り物を堪能することができました。千社札がところ狭しと貼られ、美観を損ねているのが気になりますが。
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 解説があったので転記します。
 慶長7・8年(1602・3)豊臣秀吉の子秀頼によって、京都豊国廟(秀吉の亡がらを葬った廟所)を竹生島に移築するかたちで、当時荒廃していた竹生島の伽藍整備が行われました。この時、豊国廟の極楽門が移築され現在の宝厳寺唐門になったといいます。豪華絢爛と評される桃山様式の建造物の特徴がよく表れており、破風板内部の正面中央には大型の蟇股が置かれ、その内部は牡丹の彫刻で埋められています。蟇股の外部や脇羽目なども多彩な彫刻で埋め尽くされ、極彩色で飾られています。現在は、長年の風雨によりその華やかな色もずいぶん褪せていますが、建立当初は、黒漆塗りの躯体と、赤・黄・緑などの極彩色とが鮮やかなコントラストで映えていたことでしょう。
 さて、この唐門は京都から移築されてきたものですが、実は、その前に一度移築を経験しています。このことが最近ある大発見によってよりクローズアップされてきました。2006年、オーストリアのエッゲンベルグ城に飾られていた壁画が、豊臣時代の大坂を描いた?風絵であったということが判明したのです。そこには、大坂城の本丸と二の丸の間にかかる屋根や望楼を持つ豪華な橋・極楽橋が描かれていたのです。この橋は、慶長元年(1596)に京都の豊国廟へ移築され極楽門として設置されたことが分かっています。さらに、慶長7年(1602)に竹生島に移築され現在に残っているというわけです。江戸時代の初期に徳川家によって 破却された豊臣時代の大坂城の一部が唯一、竹生島に現存しているのです。秀吉が、初めて城持ちの大名となった地である長浜に、栄華を極めた秀吉の象徴とも言える大坂城の遺構が唯一残っていることは、深い因縁を感じさせます。

 本日の二枚です。
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# by sabasaba13 | 2018-01-30 06:31 | 近畿 | Comments(0)

近江編(68):竹生島(15.3)

 数分ほどペダルをこぐともう長浜港です。自転車を駐輪場に置き、往復乗船料3070円を払って10:15出港の「べんてん」号に乗り込みました。そして定刻通り、出航。♪うなれ潮風 さかまけ怒涛 行こう乗り出せ 七つの海へ 冒険求めて 碇をあげろ♪などと口ずさんでも、「海賊王子」なんて知らない方が多いでしょうね。オープンデッキに出ると、長浜の街と伊吹山を眺望することができました。
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 残念なことに曇天ですが、鏡のような湖面を船は航走し三十分ほどで竹生島に着きました。2キロの小さな島ですが、西国三十三カ所観音めぐりの三十番札所「宝厳寺」や「都久夫須麻神社」のある島として、古来より人々の厚い信仰を集めてきた島です。お目当ては、受験用日本史知識として頭に詰め込んだ「都久夫須麻神社本殿」です。「詳説日本史B」(山川出版社)から引用します。
 入母屋造・檜皮葺の建物で、伏見城内の殿舎を移築したものである。屋根の唐破風、豪華な透し彫をほどこした扉など、桃山時代の華やかな趣きをよく示している。
 港に着いて上陸すると、「琵琶湖周航の歌」の碑が出迎えてくれました。
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 いいなあ、私、この歌が大好きです。波間に揺られるような三拍子にのった優美なメロディが魅力的。
 瑠璃の花園 珊瑚の宮 古い傳への竹生島 佛の御手にいだかれて ねむれ乙女子やすらけく
 裏には建碑の由来が記されていたので、後学のために転記します。
 琵琶湖周航は 第三高等学校に伝わる漕艇の行事であるが 明治廿六年四月 新艇三隻に分乗して初めて周航を行って以来 年と共に盛んになり ボートの選手のみでなく 他の運動部の者も 広く一般の学生も 誰もがクルーを作って湖上に漕ぎ出すようになったものである。
 或時は力漕に力漕を重ね 練習第一の遠漕に汗を流し 或時は湖上の風物に詩情を養い 史跡名勝を訪ね 人情を探り漕友互に苦楽を共にして数日の周航に多感の青春を謳歌した
 偶々大正七年 三高クルーの整調小口太郎等が作詞したこの歌は こうした周航のムードがそのまま歌となったもので吉田千秋作曲のメロディーの美しさと相俟って 学生から広く全国民の愛唱する処となり 若者の歌 琵琶湖の讃歌として 永く歌い継がれて来た
 茲に 琵琶湖の歴史を思い周航歌の一節を碑に刻んで ゆかりの聖地竹生島に建て 湖国の恵みを偲ぶよすがとする次第である

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2018-01-29 08:29 | 近畿 | Comments(0)

近江編(67):長浜(15.3)

 まずは本館を撮影、入母屋造の玄関が印象的な風格ある建物です。そして入館料を払って、盆梅展を鑑賞しました。見事な枝振りのさまざまな品種の梅が百花繚乱、予想以上に楽しめました。
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 前庭にもいくつか見どころがありました。まずは"蓬莱にきかはや伊勢の初たより"と刻まれた松尾芭蕉の句碑。句の意味は「めでたい蓬莱飾りを眺めていると伊勢からの初便りが聞こえてくるようだ」と解されているそうです。高さ5m、重量10tで、日本最大の芭蕉句碑とのことです。自然石の巨大な大灯籠は高さ約5m、推定重量20tで、大津市から琵琶湖上を船で運ばれたと伝えられているそうです。ちょっと風変わりな力士像がありましたが、解説板を転記します。
 明治時代後期の大横綱である常陸山谷右衛門の石像。日露戦争のこと相撲界は「梅ヶ谷・常陸山時代」を迎え、空前の黄金期に沸き、両国国技館竣工の原因となった。稀に見る教養人として「角聖」とよばれた。
 この常陸山を贔屓にしたのが、慶雲館の生みの親、浅見又蔵氏である。
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 そして道路をはさんで向かいにある「長浜鉄道スクエア」へ、お目当ては現存する駅舎としては日本最古の旧長浜駅舎です。敦賀線(北陸線)の起点駅として、また長浜~大津間の鉄道連絡船の駅として、1882(明治15)年3月10日の鉄道開通と同時に完成しました。
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 ほかにもHOゲージの鉄道模型が長浜駅周辺を模したジオラマを走る長浜鉄道文化館や、D51蒸気機関車と、蒸気機関車から電車に切り替わったとき登場したED70形交流電気機関車を静態保存している北陸線電化記念館があります。館内にあった顔はめ看板を撮影して、さあ竹生島へ向かいましょう。
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 本日の五枚です。
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# by sabasaba13 | 2018-01-28 07:44 | 近畿 | Comments(0)

近江編(66):長浜(15.3)

 それでは慶雲館へと向かいましょう。途中に「ばったん床几」が二つもある商家を見かけました。浄琳寺は太鼓櫓が印象的な、商家のような造りです。
 地元に根付いた喫茶店でモーニング・サービスをいただきたいところですが、見当たりません。しかたがない、駅に隣接する「Joyfull」というチェーン店で朝食をいただきました。ん? これもスペルミスか、と思いきや、「joy」と「full」を合わせた造語だそうです。
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そして踏切を渡り、慶雲館に到着。門前にあった解説板を転記します。
 慶雲館は、明治20年(1887)2月21日明治天皇、昭憲皇太后の御休憩所として、長浜の豪商・浅見又蔵氏が私財を投じて建設しました。命名は同行した初代内閣総理大臣・伊藤博文です。
 約六千平米の広大な敷地内には、地元の宮大工平山久左衛門(屋号 山久)により総檜造りの秀麗な本館や茶室などが整備され、以後も長浜の迎賓館として使われてきました。
 明治45年に造営された庭園は、京都の平安神宮神苑などを手がけ、近代日本庭園の先覚者と呼ばれた七代目小川治兵衛(屋号 植治)によるもので、国の名勝に指定されています。主庭となる南庭は、地形に大きな起伏をつけた立体的な構造と巨石や大灯籠を用いた豪壮な意匠が特徴です。
 また、毎年1月10日から3月10日までの間、新春の風物詩「長浜盆梅展」の会場となり見事な枝振りの梅と純和風の建物、そして雪吊が施された庭園の美しさに多くの観光客が訪れます。
 そう、お目当ては盆梅展ではなく、植治の庭です。受付にてその旨を話すと、何と盆梅展開催中なのでお庭は見られないとのこと。うーん、い、け、ず。しようがない、せっかくなので盆梅を拝見することにしましょう。

 本日の二枚です。
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# by sabasaba13 | 2018-01-27 06:38 | 近畿 | Comments(0)

近江編(65):長浜(15.3)

 北国街道はなかなか味わいのある街並みで「うだつ」のある町屋も散見されました。「武者隠れ道」という解説もあったので二つほど転記しておきます。
 この通りは北国街道の中で「武者隠れ道」と言われ他の街道には見られず、四ツ辻間が南北間長さ六十五間九尺(120米)各戸の家敷と隣家の家敷の境界が不規則に出たり入ったりして戦の時に身を隠したと古老より言ひ伝えられております。この様な道は余り他に見られぬ独特の景観を呈しております。

ここから『うだつ』がよく見える
 うだつ 「うだつが上がらない」とはよく使われる言葉だが「うだつ」とはもともと建築用語で日本家屋の屋根の両端を一段と高く上げ小屋根をつけた土壁を意味します。「うだつ」は防火や装飾などの目的で造られ、金持ちの家に限られたことから景気や威勢の良い例として「うだつ」が上ると言われます。
 「うだつ」が始めて造られたのは室町時代、応仁の乱後、荒廃した京都に景気を取り戻したい一心で、民衆が考案「うだつ」を上げた。その後徳川時代の町人文化に受けつがれ各地に拡大され現存している。「うだつ」は富の象徴でなく、日本史に登場する民衆の自立自主の現れです。
 なるほど、二つ目の解説板のところからは、大きな「うだつ」と煙抜きがよく見えました。
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 余談ですが、私がこれまで訪れた中で「うだつ」の見事な街並みは脇町貞光美濃市です。
 武者の顔はめ看板を撮影してしばらく走ると、旅人の格好の目印とされた郡上太神宮の大きな石灯篭がありました。そこにあった石碑によると、開国論に火花を散らし暗殺された金沢藩家老の仇討が明治4年にこの近くであり、これが日本最後の仇討とされているそうです。ほんっとに旅に出るといろいろと勉強になります。なんの役に立つかはよくわかりませんが。
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 曳山祭りのポスターを撮影して、大通寺へと向かいましょう。大手門通りを走って左に曲がると、長浜城外堀の名残でしょうか、堀と街並みが情緒ある風景をつくっていました。浄土真宗大谷派別院の大通寺(長浜御坊)は以前に訪れたことがあるので、山門だけ撮影しました。
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 本日の三枚です。
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# by sabasaba13 | 2018-01-26 06:51 | 近畿 | Comments(0)

近江編(64):長浜(15.3)

 その向かいにあるのが旧開知学校、1874(明治7)年に町民の寄付によって建てられた、洋風の木造校舎です。八角形の櫓が印象的ですが、これは2000(平成12)年に復元されたものだそうです。
 長浜駅前を走っていると、豊臣秀吉と石田三成の銅像がありました。解説を転記します。
秀吉公と石田三成公 出逢いの像

 長浜城主の羽柴秀吉公は、鷹狩りの途中に観音寺(米原市朝日町)へ立ち寄りました。汗をかいた様子の秀吉公を見た寺小姓の佐吉少年は、大きな茶碗にぬるいお茶をなみなみと持ってきました。秀吉公がもう一杯頼むと、少年は先ほどよりも少し熱いお茶を、茶碗に半分ほど差し出しました。そこで秀吉公は、さらに一杯所望したところ、今度は小さな茶碗に熱いお茶を入れて出しました。秀吉公は、茶の入れ方ひとつにも気を配る佐吉少年を気に入り、召し抱えました。この少年が後の石田三成公で、この話は「三献の茶」として、今も語り継がれています。
 三成公は、ここから5キロメートル東の長浜市石田町の土豪の子として生まれ、今も出生地辺りには官名にちなんだ治部という小字が残っています。
 また観音寺には、茶の水を汲んだと伝わる井戸が残されています。
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 そして北国街道へ。別称は北国街道、琵琶湖の北東岸を北上して越前に抜ける街道です。彦根市鳥居本で中山道から分岐して、米原、ここ長浜、木之本、椿坂峠、栃ノ木峠を経て越前に入り、武生、福井、大聖寺、金沢、倶利伽羅峠、高岡富山、直江津を通過して新潟に達します。
 まずは国立第百三十銀行長浜支店を利用した、黒漆喰が印象的な黒壁ガラス館を撮影。ふと気づくと「近代日本の求道者 西田天香さん 一燈園生活創始者 長浜市名誉市民 第一号 (1872~1968)」「天香さん北海道開拓の本部 必成社跡」という小さな記念碑がありました。一燈園か…たしか尾崎放哉が入っていたと記憶しており、かなり昔に山科で実際に見たような気もします。
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 気になったので、今、インターネットで調べてみました。日本大百科全書(ニッポニカ)からの引用です。
西田天香 にしだてんこう (1872―1968)
 宗教家。本名市太郎。滋賀県長浜の紙問屋に生まれる。1891年(明治24)兵役を逃れるため北海道に移住し、開墾事業の監督となったが、小作農民と資本家の対立に挟まれて行き詰まり、3年余で求道の放浪生活を始めた。1903年(明治36)トルストイの『わが宗教』に啓発され、禁欲・奉仕・内省の信仰生活に入った。05年、断食中に乳児の泣き声を耳にして、人生の理想は赤子のように無心になることと悟り、京都鹿ヶ谷に一燈園を開き、のち山科に移った。一燈園では托鉢・奉仕・懺悔の共同生活を営み、財団法人光泉林、すわらじ劇団などを設立した。西田は光明祈願による新生活を提唱し、政治・外交・社会運動についても活発に発言して、国策を支持した。第二次世界大戦後の47年(昭和22)参議院議員となり、ガンジーの非暴力主義と世界連邦思想に共感を示した。
 旅をすると、ほんとうに勉強になりますね。だからやめられません。

 本日の三枚です。
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# by sabasaba13 | 2018-01-25 06:33 | 近畿 | Comments(0)

近江編(63):長浜(15.3)

 駅前通りへと向かうと、むくり屋根に平屋の古い商家があり、金網看板に「本家堅ボーロ」と掲げられていました。軒のところに誇らしげに電話番号が浮き彫りにされているところなど時代を感じさせます。それにしても堅ボーロとは何ぞや? 今、インターネットで調べてみると、「元祖堅ボーロ本舗」のホームページに次のような説明がありました。
 ポルトガル語で小さく球状のお菓子を意味する「ボーロ」にちなんで「堅ボーロ」と名付けられ明治27年創業以来「体にやさしい」をモットーに自然食品として今も昔と変わらず手造りで製造しております。
 「堅ボーロ」はそのごつごつした形で長浜城跡の穴太(あのう)積みされた石垣をイメージとした質実剛健のもと着色料、防腐剤等一切使用せず小麦粉の生地を二度焼きし、現在見直されている生姜の効能をベースに生姜砂糖でコーティングしたお菓子です。
 口の中に広がる砂糖の素朴な甘み、生姜の爽やかな風味に定評があり、昔を懐かしんでやってくる年輩のお客様も後をたちません。
 日清戦争・日露戦争・太平洋戦争中には、前線の兵士への慰問袋に入れられ、故郷を思い出す味として親しまれ、日露戦争時には、戦争に勝利するため「亡露」と呼ばれていました。
 今までにも明治、大正、昭和、平成と各世代の方々に愛され百余年。昭和天皇、皇室の皆様にもご賞味いただきました。
 なおややこしいのですが、どうやら「元祖堅ボーロ本舗の本家堅ボーロ」という名称のようです。そのライバルが「田中屋本店の長浜ボーロ」、熾烈な商戦が展開されているようです。
 駅前通りに出ると、屋上にしょぼいタワーを乗せた奇っ怪なビルがありました。この手の物件は大好物なので撮影し、今、インターネットで調べてみると「長浜タワービル」であることが判明しました。ウィキペディアによると、1964(昭和39)年に、地元の資産家が「長浜にも東京タワーのような名物を作りたい」という意向で建設したそうです。このタワー…というよりも鉄塔はただの飾りで、電波の送受信といった機能は一切ないとのこと。なおビルの正面には「NAGAHAMA TOWERBILL」と記されていますが、これは"BUILDING"のスペルミスだという指摘がありました。撮影した写真で確認すると…ほんとだ。こういう脱力物件を許容する長浜市民の叡智に敬意を表します。
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 本日の二枚です。
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# by sabasaba13 | 2018-01-24 06:25 | 近畿 | Comments(0)