伊勢・美濃編(63):明治村(14.9)

 おっ『となりのトトロ』に登場する猫バスだ、乗ってみたいですね。大阪池田チキチキ探検隊の「ふくまるちゃん」の顔はめ看板があったので、何者だかよくわかりませんがとりあえず撮影。
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 呉服(くれは)座は、大阪の池田市にあった芝居小屋。ここでは地方巡業の歌舞伎をはじめ、壮士芝居、新派、落語、浪曲、講談、漫才等様々なものが演じられましたが、特に興味を引くのは、尾崎行雄や幸徳秋水らが立憲政治や社会主義の演説会に使っていることで、当時の芝居小屋が大衆の遊び場、社交場であると同時に、マスコミの重要な役割も果たしていたことがうかがわれます。
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 半田東湯は、知多半島の先、三河湾に面する港町亀崎にあったもので、小さな町にふさわしく間口3間のこじんまりとした銭湯です。
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 聖ザビエル天主堂は、フランシスコ・ザビエルを記念して、1890(明治23)年、かつてザビエルがいたことのある京都の地に献堂されたゴシック様式のカトリック教会堂です。中に入ると、落着いた光沢を放つ欅の木造部分や、ステンドグラスの織りなす美しい光が印象的でした。
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 金沢監獄正門は、石の帯状装飾を入れた煉瓦造。中央のアーチ型出入口、左右の二階建ての看視塔が、まるでヨーロッパのお城のような素敵な門です。
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 小那沙美島燈台は、軍事的要衝である広島湾から瀬戸内海への出口、宮島の脇の小さな島である小那沙美島に1904(明治37)年に建造されました。瀬戸内海には大小の島々が浮かぶので、こうした小さな燈台が島ごとに建てられたそうです。
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 天童眼鏡橋は、将棋の駒で有名な山形県の天童につくられた石造アーチ。「多嘉橋」と呼ばれ、地元の山寺石を積んで造られています。
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 前橋監獄雑居房は、「監獄則並図式」(1872)に沿って1888(明治21)年につくられたものですが、江戸時代以来の日本の牢屋の形式をそのまま伝えています。
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# by sabasaba13 | 2016-06-01 06:35 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(62):明治村(14.9)

 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が、夏を焼津で過ごすようになり、その時身を寄せていたのが、この魚屋、山口乙吉の家です。解説がったので転記しておきます。
 八雲と焼津
 八雲が焼津へ避暑に行くようになったのは、東京に住んでからである。水泳が好きな八雲は、焼津の深くて荒い海を気に入ったのである。
 東京では寸暇を惜しんで執筆活動をしていた八雲だが、焼津では、長男一雄の勉強をみたり、東京に残る妻節子へ手紙を書いたり、何よりも散歩や水泳を好んだ。そして、滞在する山口家の当主山口乙吉をはじめとする焼津の人々に魅力を感じて、焼津を一層気に入り、毎年のように通ったのである。
 八雲には、焼津を舞台とした「乙吉の達磨」「焼津にて」「漂流」などの作品がある。

 小泉八雲と焼津
 焼津滞在中の八雲の服装は(これは私の母が語ってくれたのであるが、印象はあまりいい恰好ではなかったようだ)、木綿でできた縞模様の浴衣に、三尺の兵児帯を締めた、ごくさっぱりした姿であった。ところが帯の締め方が、腰より上の胴廻りに締めていたので、乙吉が腰廻りに締めるよう教えても、「この方が前割れしないから」と直そうとしなかった。散歩の時は、焼津独特の菅笠をかむり、藁草履で、緒には赤い布が巻いてあった。これは散歩好きの八雲のため、足指を傷めないよう乙吉の手製である。八雲は乙吉の心根に感じ、好んで履いて歩いた。散歩するには必ず乙吉が付添い、土地の伝説やら、由来やらを途々歩きながら話して聞かせた。「乙吉だるま」「漂流」「焼津にて」などの作品になっている。
 散歩のお伴には、乙吉の外に小学一年の乙吉の末娘さき(後小泉邸へ女中として行く)や、近所の腕白共が付いて歩いた。片方の目がなく、もう片方の目の大きい、どんぐり目の八雲の風体は決して優しい印象は与えなかったのに、子供達からは妙に慕われて、海水浴には毎日のように一緒に泳いだ。海に入る時は、浜の漁師達と同様、八雲もフリチンで泳いだ。勿論子供達も男女を問わず同様である。当時小学校高学年であった長男一雄さんが、恥かしいといって海に入らなかったところ、ひどく叱られたと思い出に記している。何の虚飾もない焼津の人々の人情が、若い時代から苦労して来た八雲にとっては、此の上ない好もしいものであったようである。
八雲顕彰会会長 北山宏明
 すごくいい話ですね。彼と焼津の人々の交流が目に浮かぶようです。彼に関する史跡も、けっこうまわってきました。ダブリン熊本新宿松江などなど。なお山ノ神が言うには、『日本の面影』(角川文庫)がすごく面白いそうです。今度読んでみようかな。
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# by sabasaba13 | 2016-05-30 08:49 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(61):明治村(14.9)

 そしてこちらも再会を待ち望んでいた物件、「喜之床」です。東京本郷にあった新井家経営の理髪店で、二階二間は、石川啄木が函館の友宮崎郁雨に預けていた母かつ、妻節子、長女京子を迎えて1909(明治42)年6月16日から東京ではじめて家族生活をした新居です。啄木はここで文学生活をしながら京橋滝山町の東京朝日新聞社校正部に勤めていました。そして翌年の12月に出版したのが処女歌集「一握の砂」であり、また啄木の思想にも影響した大逆事件が起きた年でもあります。その頃から母も妻も啄木も結核性の病気になり、二階の上り下りも苦しくなって、1911(明治44)年8月7日小石川久堅町の小さな平家建の家に移りました。翌年3月7日にはそこで母かつが死に、4月13日には啄木もまた母の後を追うように27歳の薄倖の生涯を閉じました。合掌。
 石川啄木は大好きな歌人であり思想家です。彼が『時代閉塞の現状』(1910)で述べた「我々青年を囲繞する空気は、今やもう少しも流動しなくなつた。強権の勢力は普く国内に行亘つてゐる。現代社会組織は其隅々まで発達してゐる。-さうして其発達が最早完成に近い程度まで進んでゐる事は、其制度の有する欠陥の日一日明白になつている事によつて知る事が出来る」という一節を、まるで百年以上も前の状況とは思えない昨今、あらためて読み返したい作家です。啄木関連の史跡はこれまでも、渋民村十和田湖盛岡函館札幌小樽旭川釧路本郷上野駅を訪れてきましたが、これからも追いかけ続けていきたいと思います。なお啄木がつくった、食べものをからめた歌が紹介されていました。
それとなく故郷のことなど
語り出でて
秋の夜に焼く餅の香かな

新しきサラドの皿の
酢のかをり
心にしみてかなしきゆふべ

ひとしきり静かになれる
ゆうぐれの
厨にのこるハムのにほひかな

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# by sabasaba13 | 2016-05-29 09:03 | 中部 | Comments(0)

言葉の花綵142

 There is no wealth, but life 富何者ぞただ生活あるのみ (ジョン・ラスキン)

 美は世界を救う。(『白痴』 ムイシュキン公爵)

 世には、欠点をうまく身につけている人もあれば、長所をもてあましている人もある。(ラ・ロシュフコー)

 剣と銃丸の夜のあとにはチョークと黒板の朝がやってきた。戦場の物理的暴力のあとには教室の心理的暴力がつづいたのだった。(グギ・ワ・ジオンゴ)

 だれが敵でだれが友であるべきかを他人に教えてもらってはいけない。(マルコムX)

 私の身体よ、いつまでも私を、問い続ける人間たらしめよ。(フランツ・ファノン)

 美のために破ってはならない法則は存在せぬ。(ベートーヴェン)

 我々はいかなる場合にも機械が人間に奉仕すべきで、人間が機械に服従する理由のないことを信じていてもまちがいはない。(伊丹万作)

 芸術もセザンヌくらいの巨人になると、その日課は時計のごとく正確で平凡であった。(伊丹万作)

 「病的な美しさ」-そんなものがあるものか。ふざけるなといいたい。(伊丹万作)

 法則とは自分が発見したら役に立つが、人から教わるとあまり役に立たぬものだ。(伊丹万作)

 将来の演技指導者たらんとするものはまず何をおいても「説明」の技術を身につけることを資格の第一条件と考えるべきであろう。(伊丹万作)

 ある種の論文の目的は、そのような論文を書く必要をなくすることにある。(中野重治)

 言葉というものを正しく使わない世の中は、ひじょうに危機的な状況に陥る。(カール・クラウス)

 猜疑は民主主義の母である。(unknown)

 土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない。(砂川事件 青木市五郎)

 戦争の法は存在しない。戦時下において悪を抑止するのは法ではなく、恐怖や利得なのである。(ヴォルテール 『哲学的コント』)

 戦争において、もっとも嫌悪すべきものは、戦争によって生じる廃墟ではなく、戦時にあらわれる無知と愚かさだ。(アナトール・フランス)
# by sabasaba13 | 2016-05-28 06:52 | 言葉の花綵 | Comments(0)

『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』 (その二)

 そしてもう一つ、『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(前泊博盛 創元社)が教えてくれた衝撃的な事実を紹介します。それは…

 日本は法治国家ではない

 …という事実です。皮肉でもレトリックでもなく、ほんとうに日本は法治国家ではないのです。なにしろ米軍基地をめぐる最高裁での審理において、最高検察庁がアメリカの国務長官の指示通りの最終弁論を行ない、田中耕太郎最高裁長官は大法廷での評議の内容を細かく駐日アメリカ大使に報告したあげく、アメリカ国務省の考えた筋書きにそって判決を下したことが、アメリカ側の公文書によってあきらかになっているのです。(p.239)

 そう、砂川事件に関して、東京地裁の伊達秋雄裁判長が、在日米軍の違憲判決を出した、いわゆる「伊達判決」です(1959.3.30)。安保条約改定直前ということもあって、あわてふためいた日米両政府は協力して事を進め、跳躍上告の結果、なんとわずか九ヵ月弱のスピード審理で、在日米軍は違憲ではないという最高裁判決が出されます(1959.12.16)。さらに問題なのはその判決の内容です。以下、長文ですが引用します。筆者の言にあるように、これは戦後史最大の事件かもしれません。
 しかしこの判決のもつ最大の意味は、判決要旨六の内容です。「安保条約のごとき、主権国としてのわが国の存立の基盤に重大な関係をもつ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否かの法的判断は、(略)裁判所の司法審査権の範囲外にある」
 これこそ「戦後日本」という国家の中枢をなす条文です。それはなぜか。この判決文は「安保条約のような高度な政治性をもつ事案については憲法判断をしない」とのべています。ところが判決要旨一と七でもとくに言及されている「憲法第98条第2項」(「日本国が締結した条約および確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」)の一般的解釈では、「条約は憲法以外の国内法に優先する」となっています。ですからこの最高裁判決と、憲法第98条第2項の一般的解釈を重ねあわせると、…安保を中心としたアメリカとの条約群が日本の法体系よりも上位にあるという戦後日本の大原則が確定するのです。
 …この…ロジックもまた、アメリカ国務省が「長年の研究」にもとづいて考案したものだった可能性が非常に高いと思います。…
 砂川判決のもつ最大のポイントは、この判決によって、GHQ=アメリカ(上位)>日本政府(下位)という、占領期に生まれ、その後もおそらくウラ側で温存されていた権力構造が、安保を中心としたアメリカとの条約群>日本政府(下位)という形で法的に確定してしまったことにあります。…
 さらにもうひとつ、大問題があります。こうしたウラ側の権力構造が法的根拠を得た結果、今度はアメリカだけでなく、アメリカの意向をバックにした日本の官僚たちまでもが、日本の国内法を超越した存在になってしまったということです。
 注目していただきたいのは、「憲法判断ができない」と最高裁が決めたのが、「安保条約」そのものではなく、「安保条約のごとき、高度の政治性を有するもの」というあいまいな定義になっているところです。ここにアメリカ自身ではなく、「アメリカの意向」を知る立場にある(=解釈する権限をもつ)と自称する日本の官僚たちの法的権限が生まれるのです。
 砂川裁判の判決を読めば、少なくとも「国家レベルの安全保障」に関しては、最高裁は憲法判断ができず、この分野に法的コントロールがおよばないことは、ほぼ確定しています。おそらく昨年(2012年)改正された「原子力基本法」に、こっそり「わが国の安全保障に資することを目的として」という言葉が入ったのもそのせいでしょう。これによって今後、原子力に関する国家側の行動はすべて法的コントロールの枠外へ移行する可能性があります。どんなにメチャクチャなことをやっても憲法判断ができず、罰することができないからです。
 すでにいまから35年前の1978年、周辺住民が原子炉の設置許可取り消しを求めて争った伊方原発訴訟の一審判決で柏木賢吉裁判長は、「原子炉の設置は国の高度の政策的判断と密接に関連することから、原子炉の設置許可は周辺住民との関係でも国の裁量行為に属する」とのべ、1992年の同訴訟の最高裁判決で小野幹雄裁判長は、「〔原発の安全性の審査は〕原子力工学はもとより、多方面にわたるきわめて高度な最新の科学的、専門技術的知見にもとづく総合的判断が必要とされる」から、「原子力委員会の科学的、専門技術的知見にもとづく意見を尊重して行なう内閣総理大臣の合理的判断にゆだねる」のが適当(相当)であるとのべていました。
 このロジックは、先に見た田中耕太郎長官の最高裁判決とまったく同じであることがわかります。三権分立の立場からアメリカや行政のまちがいに歯止めをかけようという姿勢はどこにもなく、アメリカや行政側の判断に対し、ただちに無条件でしたがっているだけです。田中耕太郎判決のロジックは「統治行為論」、柏木賢吉判決のロジックは「裁量行為論」と呼ばれますが、どちらも内容は同じです。こうしてアメリカが米軍基地問題に関してあみだした「日本の憲法を機能停止に追いこむための法的トリック」が、次は原子力の分野でも適用されるようになってしまった。その行きついた先が、現実に放射能汚染が進行し、多くの国民が被曝しつづけるなかでの原発再稼働という狂気の政策なのです。(p.253~7)

 「政府は憲法に違反する法律を制定することができる」
 これをやったら、もちろんどんな国だって亡ぶに決まっています。しかし日本の場合はすでに見たように、米軍基地問題をきっかけに憲法が機能停止に追いこまれ、「アメリカの意向」をバックにした行政官僚たちが平然と憲法違反をくり返すようになりました。すでにのべたとおり憲法とは、主権者である国民から政府への命令、官僚をしばる鎖。それがまったく機能しなくなってしまったのです。
「『法律が憲法に違反できる』というような法律は、いまはどんな独裁国家にも存在しない」と、早稲田大学法学部の水島朝穂教授は言います。
 しかし、現在の日本における法体系は、ナチスよりもひどい。法律どころか、「官僚が自分たちでつくった省令や行政指導」でさえ、憲法に違反できる状態になっているのです。(p.258)
 すこしでも関心があれば、1500円の身銭を切れば、克明にわかることなのに。日本人の思考停止と無知と無関心の深淵は計り難い…
# by sabasaba13 | 2016-05-27 06:37 | | Comments(0)