「SAYURI」

 声楽を習っている山ノ神が、先日ニコニコしながら帰ってきました。先生に「夜の女王のアリア(『魔笛』より「地獄の復讐がこの胸にたぎる」)の一番高い音(F♯?)が出てますね、素晴らしい」と褒められたそうです。CDにあわせて、アハハハハハハハハーと上機嫌で歌いながら、「私は夜の女王よお、あなたのことはパパゲーノと呼んであげる。」 やめてくれ。 クサンチッペと呼びかえすぞ。

c0051620_917227.jpg ま、それはさておき映画「SAYURI」を見てきました。竹:満足、元は取った、というところですね。スピルバーグ製作、ロブ・マーシャル監督による、二次大戦前後におけるある日本人芸者の一代記です。貧困の中、ある男性との出会いから一流の芸者となる決意をし、ライバルの妨害をはねのけ芸を磨き、花街一の芸者となるが戦争によりすべてを失い、そして最愛の男性と再会するというストーリー。単純な話なのですが、芸達者がそろっているので飽きさせません。中でも主演のチャン・ツィイーと主人公の子供時代を演じた大後寿々花のうるうるとした目の魅力にはまいりました。
 それにしてもなぜこのような映画をつくったのか疑問に思いました。パンフレットによると、製作者の意図は日本文化に対する興味と敬意を表現したかったとのことです。家屋、街並、庭園、歌舞、着物、化粧、そして何よりも芸者という存在。春を売らずに芸道を極める女性という存在は、欧米文化からすると珍しいのかもしれませんね。ステロタイプとなっている「ゲイシャ」というイメージを壊そうとしたのかもしれません。ただ丸窓の多い家屋や、中国風四阿(あずまや)のある庭園など、かなり違和感を感じました。出演者の証言によると、監督のイメージによる「日本の美」の再現したということなので、これは意図的なものですね。われわれが「日本の美」に対してもつイメージだって画一的で単純なものですから、別段責めるいわれはありません。
 確かに美しい映像と面白い話で満ちている映画なのですが、全体的に薄っぺらいという印象です。イツァーク・パールマンとヨー・ヨー・マが挿入曲を演奏しているのですが、この二人の演奏のように美しいけれど何も心に残らないという感じ。チョン・キョンファと故ジャクリーヌ・デュ・プレが演奏していたら相当違った印象になるでしょうね、無理だけれど。
 帰りながら、座席からしばらく立てなくなるような映画を見たいね、などと山ノ神と話しました。もし死ぬ間際に一本だけ映画を見られるとしたら、私は『ブラス』、彼女は『山の郵便配達』。
# by sabasaba13 | 2006-01-15 09:18 | 映画 | Comments(0)

「啄木 ローマ字日記」

 「啄木 ローマ字日記」(桑原武夫編訳 岩波文庫)読了。「漱石日記」の次の厠上本(便所で読む本)でした、一さん御免なさい。 Hareta Sora ni susamajii Oto wo tatete, hagesii Nisi-Kaze ga huki areta. 日記の冒頭部分です。石川啄木は十年にわたって日記を書いていますが、そのうち1909(明治42)年4月7日から6月16日までの間は、ローマ字で記しています。何故と、ずっと疑問に思っていたのですが、桑原武夫氏の解説で疑問が氷解しました。
 啄木はローマ字という新しい表記法をとることによって、彼の上にのしかかるいくつかの抑圧から逃れることができた、と考えられる。(1)それが家族の人々には読まれない、という意味で精神的、さらに倫理的抑圧から。(2)日本文学の伝統の抑圧から。(3)それらをふくめて、一般に、社会的抑圧から。それらから逃れて、この日記のうちに彼は一つの自由世界をつくることによって、その世界での行動すなわち表現は、驚くべく自由なものとなりえた。
 なるほど。確かにここには、自分を赤裸々に描きつくそうとする啄木がいます。自由や安心への渇望と、家族(老母・妻・娘)に対する責任に引き裂かれ、そして貧困のどん底で喘ぐ啄木。朝日新聞社から給料を前借りし、その金で女郎を買い本を買い、苦境にある友人を救う啄木。そして迫りくる肺結核の黒い影… 中には一日分を数ページもかけて書いた日記もあり、まるで短編小説を読んでいるようです。そうした苦境の中でも、小説・評論・短歌・日記という形で自己を表現しようと彼はもがき続けます。
 予は 弱者だ、たれのにも劣らぬ 立派な力をもった 弱者だ。(1909.4.10)
 便所で読むにはかなり重い日記ですが、充実した時間を過ごせました。なお上京してきた老母・妻・娘のために用意した下宿が、本郷弓町の喜之床だったのですね。現在、明治村に保存されています。印象に残った日記を二ヶ所、そして彼の代表的な評論「時代閉塞の現状」の一節を引用します。
 Nani ni kagirazu ichi-nichi Himanaku Shigoto wo shita ato no Kokoromochi wa tatoru mono naku tanoshii. Jinsei no Shin no fukai Imi wa kedashi Koko ni aru no daro! (1909.4.23)

 Nido bakari Kuchi no naka kara obitadashiku Chi ga deta. Jochu wa Nobose no sei daro to itta. (1909.5.14)

 我々青年を囲繞する空気は、今やもう少しも流動しなくなつた。強権の勢力は普く国内に行亘つてゐる。現代社会組織は其隅々まで発達してゐる。-さうして其発達が最早完成に近い程度まで進んでゐる事は、其制度の有する欠陥の日一日明白になつている事によつて知る事が出来る。(1910)
 次なる厠上本は「戦中派不戦日記」(山田風太郎 講談社文庫)です。なおこれまでに行ってきた啄木関連のバックナンバーを紹介します。ご照覧ください。渋民 盛岡 札幌 小樽 函館
# by sabasaba13 | 2006-01-14 09:31 | | Comments(0)

「<日本人>の境界」

 「<日本人>の境界」(小熊英二 新曜社)読了。「単一民族神話の起源」に続く、三部作の第二作目です。近代日本において、沖縄、アイヌ、台湾、朝鮮の人々がどういう状況で「日本人」として包摂され、また「日本人」から排除されたかを検証する力作・労作・大作です。
 とても要約をする力量はありませんので、一つだけ著者の主張を紹介します。外部に脅威が存在し、兵士や労働者など国家資源としてできるだけ多数の人間を動員しなければならない場合に、沖縄、アイヌ、台湾、朝鮮の人々を「日本人」として包摂し、その脅威が消えると「日本人」から排除する。後者の状況となった戦後日本で、排除と同時に「日本人単一民族」説が流布したことも納得です。官僚(軍人も含む)・政治家の都合で、必要になると様々な人々を無理矢理「日本人」に組み込み、必要がなくなるとさっさと切り捨てる。いったい「日本人」とは何なのでしょうか、この胡散臭さは銘肌しましょう。
 沖縄、アイヌ、台湾、朝鮮の近代史概説書としても有益です。それにしても著者の博学と論理的思考・文章には、毎度のことながら感嘆します。知的好奇心や批判精神が摩滅しつつある日本社会の中で、黙々と真摯に学問という営みを続ける著者にいくら献辞を捧げても足りません。

 本書の中に下記の一節がありました。昨今の「美しい日本語」ブームには閉口していたのですが、なるほどこう考えると理解できますね。和風ブームや北斎ブームも起きているようだし、次は万世一系の天皇ブームかな。別にアジアに対して優位に立つことはないのにね。
 普遍的文明は欧米の模倣、儒教文化は中国の真似となれば、あとは天皇と日本語をもちだすしか、台湾人にたいし日本が優位にたてる「威厳」の材料はなかった。

# by sabasaba13 | 2006-01-13 06:05 | | Comments(6)

谷中七福神編(3):(06.1)

 不忍池にある弁天堂は予想以上の混雑でした。朱印を押すための七福神が刷られた版画の値段を見ると、1,200円! おまけに300円払わないと朱印を押してもらえないようです。縁起物だからいいじゃん、と許容する気にならず、信心深くもないので、朱印は一切カットすることにしました。
 このあたりにはたくさんの石碑が建ち並び、これを見ているだけでも楽しいですね。弁財天を祀っていることから、まずは音楽関係のものとして八橋検校や杵屋六三郎の碑がありました。それからどういうわけか調理関係の碑も多く、ふぐ供養や包丁塚。後者はあの名作「包丁人味平」の中で、味平が元五条流仲代圭介と包丁試しを行った伝説の場所です。それからめがねの碑、そして「放浪の画家・日本のゴッホ」と呼ばれる長谷川利行を顕彰した利行碑(揮毫は熊谷守一)などがありました。
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 ここから次の護国院に向かう途中に森鴎外旧居跡の碑があり、すこし行くと上田邸(旧忍旅館)がありました。ここにあったのか! これは嬉しい偶然です、マンサール屋根にイオニア式列柱を組み合わせた奇抜なデザインです。以前ある本で見かけていつか見たいと思っていたのですが、ここにあったんだ、眼福眼福。国鉄の下山総裁が轢死体で発見される直前に泊まっていた旅館だったような気がするなあ。記憶違いかもしれません。
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 そして大黒天がある護国院に到着、ここの庫裏一階部分は、歌舞伎座などを手がけた岡田信一郎の設計によるものです。少し先に行くと、こんな掲示がありました。労働者を大事にする姿勢がいいですね寺田商事さん、機会があったら(ないと思いますが)贔屓にさせていただきます。
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 昔の雰囲気をそこはかとなく残す味わい深い街並みを歩いていると「愛玉子(オーギョーチイ)」という摩訶不思議なお店を見つけました。今調べてみたところ、「愛玉子とは台湾でしか取れない果実。その果汁を寒天状に固め、シロップやかき氷をかけたり、あんみつに入れたりして食べる。大正初期からあるオリジナルの名物で、とうとう店名にまでなった伝説のデザート。藤山一郎、サトウハチロー、橋本明治、東山魁夷ら、愛玉子を愛した芸術家は数知れず、高名な作家の作品が飾られている。」ということでした。再来を期しましょう。すぐ近くの大雄寺にある高橋泥舟の墓を参を訪ね、珍々亭で炒飯をいただきました。TVで柳家小三治が「小言念仏」を噺しておりましたが、飄々とした味わいがいいですね、油がのっています。さて次は長安寺の寿老人、この寺には狩野芳崖の墓や板碑があります。
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 そして谷中霊園に向かい、幸田露伴の小説のモデルとなった五重塔跡を拝見して、毘沙門天のある天王寺へ。
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 そして下町情緒溢れる商店街「谷中ぎんざ」に向かいました。きれいな夕焼けが見える「夕焼けだんだん」という石段のある商店街です。
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 次なるは布袋のある修性院。この布袋さんはインパクトのある像ですね、夢にでてきそう。こちらには滝沢馬琴筆塚があります。その先が青雲寺の恵比寿。ダイエットの必要がありますが、苦みばしったいい男です。
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 ここから西日暮里界隈をぬけて田端にある東覚寺まで歩いて約15分です。門前に何やら赤い物体が二体並んでいます。何だ何だ何だと思い近寄ると、体中に赤い紙を貼り付けられた仁王、赤紙仁王でした。疾患のある部分に赤い紙を張って祈願すると治癒するという伝承で、もともとは江戸期に疫病鎮めのために建立されたようです。なるほど、赤の持つ呪力が疫病を鎮めるという民間信仰はよくみられますね、お地蔵さんの赤いよだれかけや、還暦の際に着る赤い羽織や、「赤ちゃん」という言い方もこれと関連があるのでは。それにしても人々の切なる祈りを具現化したようなその迫力には圧倒されました。京都の千本ゑんま堂や釘抜きさんを思い出しますね。
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 さて最後の七福神、福禄寿を拝見すると社務所に朱印乾燥用ドライヤーがありました。気が利いているというか、即物的というか… 二宮金次郎像があったのも驚きです。何が何でもおめーらの願いをかなえてやるぜ、べらんめえ、というその意気やよし。 なお裏手の庭園にはプチ七福神が配置されており、時間と体力のない方にはお勧めです。そしてJR田端駅まで歩いて、帰宅。
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 というわけでちょうどいい距離の散歩ができました。途中にある見所の多さと落ち着いた街の雰囲気という点では隅田川七福神より面白いのではないかな。朝倉文夫彫塑館(猫好きにはたまりません)、大名時計博物館、三遊亭円朝の幽霊画コレクションがある全生庵、岡倉天心記念公園など、面白い物件が目白押し。

 本日の一枚は、東覚寺庭園のプチ七福神です。あれっ一人多いな…
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# by sabasaba13 | 2006-01-12 06:12 | 東京 | Comments(0)

谷中七福神編(2):上野公園(06.1)

 まずは両大師堂にある黒門を見学。彰義隊を中心に旧幕府武士が明治新政府に対して徹底抗戦した上野戦争の弾痕が生々しく残る当時の門は南千住円通寺に移築されており、これは1964年に復元された門だということです。門扉に数ヶ所残る弾痕は当時のものなのでしょうか。なおこれを鎮圧した、新政府軍司令官が大村益次郎ですね。
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 科学博物館の前に行くと、バスガイドのみなさんが熱心に研修をしておりました。野口英世の銅像に挨拶をして、国際こども図書館へ。
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 日本初の国会図書館としてつくられた、堂々とした風格ある煉瓦建築です(1906年築)。法務省や慶應大学図書館とならぶ、都内でも屈指の近代建築ですね、一見の価値あり。その前には、土井晩翠が長男の遺志をくんでつくった小泉八雲の記念碑があります。隣りは黒田清輝記念館。
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 そしてここの交差点にあるのが、旧京成博物館動物園駅の駅舎です。現在は使用されていないのですが、たいへん凝った意匠のギリシア神殿風建築です。よかった、取り壊されていなかった。周囲の景観を配慮したデザインだと思いますが、ぜひ保存し続けてほしいな。日本初の音楽ホール奏楽堂の前を通り過ぎると「文晁碑」がありました。揮毫は徳川家達で、側面の碑文が削り取られています。何か謂れがありそうですね。
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 上野公園生みの親ボードワン博士像・小松宮像・グラント将軍夫妻植樹碑を拝見して、お化け灯篭へ。1631年に佐久間大膳が寄進した、高さ7mの巨大灯篭です。同型のものを南禅寺・熱田神宮にも寄進したそうです、昨年両所に行ってきたのですが気づきませんでした。
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 さて空腹となったので、精養軒で昼食をとろうかと思い立ち寄ったところ、長蛇の列です。やめやめ、我慢して谷中あたりで昼飯としましょう。すぐ近くの大仏山パゴダには、かつてここにあったが焼失した大仏の顔面部分のみが飾られています。芭蕉が「花の雲鐘は上野か浅草か」と歌った時の鐘を見上げながら、清水観音堂へ。途中で最近つくられたらしい「時忘れじの塔」がありました。碑文には、関東大震災や東京大空襲といった悲しい出来事を思い起こしてもらいたいとありますが、天災と人災を一緒くたにしないでほしい。
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 人形供養で有名な清水観音堂を拝見して、少し先に行くと彰義隊士の墓碑があります。新政府をはばかって、正面には「戦死之墓」としか刻まれていません(揮毫は山岡鉄舟)。なおその遺体は見せしめのため長期間放置され、それを憐れんだ円通寺住仏摩により同寺に葬られたそうです。函館にある碧血碑を見た時も感じたのですが、敵や敗者に対する新政府の冷酷さを見るにつけ、靖国の精神につながっていますね。かつては、敗者を御霊として手厚く祀り、あるいは戦さが終わると敵味方区別なく弔うという伝統もあったはずなのですが、近現代の日本政府はここから逸脱しています。供えられたわずかの花と十数枚の一円玉が悲しい。置かれた立場は似ているのに、新撰組に人気が集中するのは不思議です。その墓碑に尻を向けて屹立する西郷隆盛像をひさびさに拝見。
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 ふと気づくとその脇に昭和天皇が皇太子の時に、この高台から大震災の被害状況を展望したという記念碑がありました。国見ですかね。階段を不忍池へと降り、いよいよ谷中七福神めぐりの開始です。
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 本日の一枚は、彰義隊士の墓碑です。
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# by sabasaba13 | 2006-01-11 06:17 | 東京 | Comments(0)

谷中七福神編(1):根岸(06.1)

 年末年始、小原庄助さん的暮らしをしていたら、心なしか布袋腹のようになりつつあり、これはいかんと思って、運動をかねて七福神めぐりをすることにしました。それにしても、決められたいくつかの場所をめぐり、その証をもらってもどってくるという行為を好む日本人の感性というのは興味がありますね。八十八ヶ所、三十三ヶ所、七福神、スタンプラリーなどなど。何故なのだろう? 数を積み重ねれば、願いが叶いやすくなるという信仰なのかな。
 それはともかく、隅田川七福神は何度も行ったので、他の所を調べてみたら、何と都内には四十ヶ所以上の七福神があるのですね。今回は都内最古という谷中七福神を選びました。

●東京都の七福神 http://park1.wakwak.com/~hisamaro/1toiawase.htm

 コースとしては、根岸を徘徊して上野公園を抜けて不忍池に出て、弁天堂を出発点にしてみましょう。道案内は「江戸東京歴史の散歩道1」(街と暮らし社)です。このガイドブックは解説が詳しく地図が正確なのは結構なのですが、該当箇所を地図ですぐ見つけられないのが難。ま、急ぐわけではないので、のんびり捜しながら歩きましょう。少し寒いけれど、雲ひとつない快晴の日曜日、まずはJR鶯谷駅で降り、駅前の喫茶店でモーニング・サービスをいただきながらコースを確認しました。だいだい腹案がかたまり、いざ出発。豆腐料理で有名な「笹の雪」近くの路地に入り、子規庵をめざします。おおっ、ほんとにここにあるのかい? 林立するラブ・ホテル群にびっくりしました。最近入、もとい、全く入ったことがないのでよく事情はわかりませんが、こんな掲示を見ると経営も大変そうですね。
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 しばらく歩くと、道が細くなり多少風情らしきものが感じられます。でも季語に「根岸の里の侘び住い」をつけると、俳句になってしまうという往時の面影はありません。初春や根岸の里の侘び住い… その一画に子規庵がありました。正岡子規が没するまで住んでいた所で、戦災で焼けた住居を復元し、遺品などを展示してあるそうです。「仰臥漫録」はここで記されたんだ… 感無量。休館でしたが、これは想定済み。また来ることにします。向かいは中村不折(画家・書家)の住居跡で、彼が収集した書を展示する書道博物館となっていますが、ここも休館。森鴎外の墓碑銘「森林太郎」を揮毫したのが彼でしたね。
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 一本隣りの道にはねぎし三平堂があります。林家三平の資料館ですが、周囲を圧する三階建てビルと、600円という高額な入場料に違和感を覚え、入らず。彼岸の三平師匠はこれを見てどう思っているのかな。「どーもすいません、でも入ってくださいよお」という声が聞こえてきそう。なお古今亭志ん生による三平の真打ち披露口上は傑作ですね。すぐ近くに襖引手資料館兼店舗もあり、家具職人が多い街だという雰囲気を伝えてくれます。
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 ここから柳通りを下谷へと歩きますが、途中で戦前の物件らしい理髪店と遭遇。「整○浄髪」という額がいいですね、不学のため一字読めませんが。
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 高いけれど美味しい洋食屋「香味屋」の前を通り過ぎて、金杉通りへ。出桁造りの民家や看板建築が点在しますが、以前よりかなり減ったような気がします。しばらく駅の方へ歩くと、肉のえびすやを発見。フライ類をその場で揚げて売ってくれる肉屋で、メンチ・ポテト・ハムかつという揚げ物三種の神器をとりそろえています。個人的なチェックポイントとしては、メンチ:タマネギが入っていない、ポテト:一口で食べられる大きさ、ハムかつ:できるだけ薄いハムを使用、なのですが、この店はどうでしょう。再来を期す。
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 近くに小野照崎神社があります。平安期の学者小野篁(たかむら)が祭神、特筆すべきは富士塚です。江戸時代に富士浅間信仰が流行し、富士山を模した築山が江戸各地につくられましたが、ほぼ当時の状態で残されているようです。高さ5mほど、溶岩をしきつめ様々な碑が並び建つ見事なものです。残念ながら7月1日の富士開きの日にしか登れないようですが、見るだけの価値はあります。また古い庚申塔や奉納された力石、金網に閉じ込められた猿の石像などもあり、楽しめます。猿といえばたしか日枝神社の神使ですよね、どういう関係があるのでしょう。何故金網の中に閉じ込められているのか、謎は謎を呼びます。
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 そして入谷鬼子母神へ。(上部の点がない「鬼」という字が出てこない!) ここは下谷七福神の福禄寿があり、賑わっていました。少し先の交差点には、尾形乾山窯元の碑がありました。隣りには、坂本小学校(廃校)の見応えある校舎があります。大正期頃のものでしょうか、尖頭型の三連アーチと放物線状の塔がいいですね、ぜひ保存して欲しいものです。さて、ここから陸橋を渡って上野公園へと向かいましょう。
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 本日の一枚は、小野照崎神社の富士塚です。
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# by sabasaba13 | 2006-01-10 06:10 | 東京 | Comments(0)

「京都人だけが食べている」

 「京都人だけが食べている」(入江敦彦 光文社知恵の森文庫)読了。著者は西陣の出身で現在はイギリスに住んでおられます。そして京都に住んでいる人々の暮らしぶりや文化を洒々落々とした文章で紹介してくれる著書が多々あります。私、ファンでして、今回の食べ物編も面白かったですね。われわれよそさんが勝手に想像する“京風”ではなくて、今、京都で暮らす方々のリアルな食風景を垣間見させてくれます。
 文化や伝統なんて生き残るものだけが生き残るもの。護るべきではなく、護らざるをえない、人々の衝動のようなものがそれを助ける。
 氏の言葉ですが、得心しました。私も納豆を食べざるをえないから食べております。
 行列を嫌い、強い名代をもつ店への敬意をしめし、コッテリ味を好み、鰻の鱗まで食べる貪欲で、漬物と牛肉を偏愛する京都人。詳しい店の紹介は、この本を買うか、図書館で借りるか、立ち読みで見てもらうことにして、脱帽するのはその縦横無尽、時には力強く時には脱力感にあふれる軽妙洒脱な文章です。「もし(このお菓子を)もらえたら、かーなりハッピーかもしんない。アルプス一万尺小槍の上で小躍りしちゃうかもしんない」などという表現を、誰がなしえたでしょうか。
 次回作も楽しみにしています。なおこの本で著者のご尊顔をはじめて拝見できました。以前の作品で、著者がご母堂から「平野はん」と言われたと書かれていましたが、この写真を見て納得。平野はん→平野神社→北野天満宮の先にある→北野を越えて→汚のう肥えて、という京都人の諧謔精神を如実に物語る言葉です。あっごめんなさい、次作も必ず買うのでご寛恕を。

 おまけ。「ホルモン」とは「放るモン=捨てるもの」、つまり動物の内臓をあらわす関西で生まれた言葉だとはじめて知りました。合点合点合点と山ノ神に喜んで話したら、「そんなの常識よ」で終わり。ほんとに常識なんですか?
# by sabasaba13 | 2006-01-09 11:43 | | Comments(0)

「パパラギ」

 「パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツィアビの演説集」(学習研究社)読了。何年かに一度読み直したくなる本てありますよね、私だったらチャンドラーの「長いお別れ」、海老沢泰久の「監督」、そして本書です。久しぶりに読み直して、また新たな発見がいくつもありました。読者が歳を重ねるごとに、別の違う顔を次々と見せてくれる本というのは、そうはありません。珠玉の書です。
 身長2m、細くて柔らかい声をだし大きな黒い目をもつ西サモアのウポル島の酋長、ツィアビがヨーロッパの国々をまわり、その文明のほんの少しの素晴らしさと数え切れないおぞましさを島民に語るという内容です。なおパパラギとは、彼らの言葉で白人を意味します。
 私、読んだ本を古本屋に売り払う魂胆も、本に対するフェティシズムも持ち合わせておりませんので、記憶しておきたい文章には平気で線を引いたり、該当ページの上の端を折ったり(ドッグ・イヤー)します。気がつけば、この本の上部の厚さが1.4倍になっていました。叡智にあふれた言葉の数々! 現在のわたしたちの安楽で窮屈な生活のあり方も、その多くを西欧文明に負っている以上、彼の指摘に耳を傾ける必要があると思います。この文明は不可避かもしれませんが、決して望ましく普遍的な要素ばかりではないとあらためて痛感しました。
 ツィアビの演説の底流にあるものは、まず人間を縛るものへの憎悪です。衣服、住居、時間、財産、思想などなど。例えば衣服、肉体を罪と考えるヨーロッパ人はそれを覆い隠そうとしてやっかいな衣服を身につけます。“子どもを生み出すという地上の喜びのために触れ合う所”を隠し、足皮(靴)で足を隠し、むしろ(ブラジャー)で胸を隠す。その結果、足はいやな匂いを発して死にかけ、ものをつかむことも、やしの木に登ることもできない。またむしろにおしつけられて女の乳房に生気はなくひとたらしの乳じるもでない。生きる喜びのために使われる肉体ではなく、衣服を着るための肉体。他者の視線を意識した衣服を購入することによって広大なマーケットが生まれ、また生気を隠すことにより隠微な性欲が生まれまたそれがマーケットを生み出していく。などと今のわれわれを取り巻く状況について、考えさせられます。
 もう一つ、ツィアビが嫌悪するのが不平等です。不平等を再生産することによって稼動するヨーロッパ文明(あるいは資本主義)というシステムを、ずばりと彼は見抜いています。以下、引用します。
 だが神は、(取ってきたものをなくすという)恐怖よりもっとずっと悪い罰をパパラギに与えた。―神はパパラギに、「おれのもの」をほんの少し、あるいはまったく持っていない人と、たくさん持っている人とのあいだにたたかいを与えた。このたたかいは、はげしくつらく、夜も昼もない。このたたかいは万人を苦しめる。万人の生きる喜びを噛みくだく。
 最後の一文なぞは、カール・ポランニーが資本主義システムを「悪魔の碾き臼」と表現したことを彷彿とさせますね。この「たたかい」が科学や技術の発達と、ほんの少しの喜びを人類にもたらしたことを認めるのは吝かではありませんが、同時に戦争・帝国主義・南北問題・グローバリゼーションと、数多の苦しむをも与えています。彼の目はさらにその先を見通しています。
 私はたったひとつだけ、ヨーロッパでもお金を取られない、だれにでも好きなだけできることを見つけた。―空気を吸うこと。だがしかし、それも実際には忘れられているだけだと思う。私がこんなことを話しているのを、ヨーロッパ人に聞かれでもしたら、息をするのにもすぐに丸い金属と重たい紙(貨幣)が必要になるだろう。なぜなら、あらゆるヨーロッパ人が四六時中、新しくお金を取る理由をさがしているのだから。
 人間の生存に必要な公共財をも、地球規模で利潤追求の手段とするグローバリゼーションの現状をすでに言い当てています。今、狙われているのは水(淡水)ですね、詳しくは『「水」戦争の世紀』(モード・バーロウ/トニー・クラーク著 集英社新書0218)をどうぞ。独占する手段さえ見つかれば、次に狙われるのは空気… という息を呑むような事態も冗談とは言えません。

 それではどうすればいいのか? 「こっちにおいでよ」というツィアビの呼び声が聞こえてきますが、もちろんそちら側へはもう戻れません。とりあえずは彼の言葉を支えとしながら、粘り強く考え、行動していくしかないでしょう。
 だれかひとりがこう言うのも神の心ではない。「おれは日なたにいる。おまえは日陰に行け」 私たちみんなが、日なたに行くべきである。

# by sabasaba13 | 2006-01-08 08:31 | | Comments(0)

青森・秋田編(26):花岡~秋田(05.9)

 さて運転手さんにお願いして、心当たりのニンギョを二件紹介してもらいました。一物付きのものではありませんが、ユニークで微笑ましい道祖神で、当然のことながら集落の入り口に鎮座されております。安曇野にある微笑ましい双体石仏だけが道祖神ではありませぬ。真鶴半島の道祖神も個性的でしたが、大館周辺のものは輪をかけて個性的です。全国道祖神めぐりも面白そうですね。なおそのうちの一つと道を挟んで白馬の人形とペニス(金精様?)が鎮座されていました。これも道祖神か、はたまた屋敷神か。興味を引かれますね。
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 さて大館駅でおろしてもらい、奥羽本線で秋田に向かいましょう。大館駅で最後のはめこみを発見しました。比内地鶏と二本のきりたんぽ! こんな美味しそうなはめこみはここだけではないでしょうか。ご教示を乞う。約二時間で秋田に到着です。途中、右手に八郎潟を見ることができました。減反政策や食糧管理制度の廃止など、ここも国の政策に振り回されている地域ですね。
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 一時間ほど時間があるので、赤れんが郷土館、千秋公園など駅周辺を少し散歩しました。ほんとは県立美術館に行きたかったのですが、さすがに無理でした。駅前に戻ると、おおっ、ここにも「菅江真澄の道」の木柱があります。「八束穂とみのるみとしの秋田路や 窪田の落穂いざひろはなむ」 私の跡を辿っておいで、と真澄に手招きされたような気持ちです。
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 というわけで、いつもにまして修羅の如く“何でも見てやろう”という姿勢に徹底した徘徊でした。そして東北の栄光と悲惨をかみしめてきました。特に会津藩士の流罪の地、軍事基地・施設が集中し、そして放射性廃棄物を永劫に押し付けられようとしている下北半島は印象深かったですね。今回は、土地は記憶をもっているんだということを痛感。原発関連施設では、かつての六ヶ所村村民の暮らし。十三湖では、中世の国際貿易都市。斜陽館では、土間に積まれた小作米とそれを見つめる津島修治。花岡の体育館では、惨殺された中国人労働者。それを偲ぶよすがは残されておらず、興味・関心・知識がなければ何も気づかず通り過ぎてしまう。忘れてはいけない記憶をたどる旅はまだまだ続きそうです。六ヶ所村と花岡事件は、現在進行形の問題を抱えているので、事態を注視していくつもりです。さて今年の9月はどこに行こうかな。一応、佐渡・新潟・富山彷徨を考えておりますが、いい情報があったら教えてください。チャオ

 本日の一枚は、大館のニンギョです。
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# by sabasaba13 | 2006-01-07 08:43 | 東北 | Comments(2)

青森・秋田編(25):花岡(05.9)

 花岡事件。1945(昭和20)年、秋田県花岡鉱山で起きた中国人労働者の虐待に対する反乱蜂起とその弾圧事件。太平洋戦時下、労働力不足を補うため強制連行が相次いだが、鹿島組(現鹿島)花岡事業所にも986人の中国人が連行され、過酷な労働と虐待が行われました。敗戦直前に彼らが一斉蜂起しましたが、鹿島組・憲兵・警察・在郷軍人会・消防団がこれを鎮圧、事件後の虐殺を含め45年末までに400人を上回る中国人が殺されたという事件です。郷土博物館からタクシーに乗ること15分ほどで、花岡鉱山露天掘り跡(現在は調整池)に到着しました。そして捕らえられた中国人労働者が、炎天下三日三晩水も食料も与えられずに拷問と取調べを受けた共楽館跡へ。当時は集会場・娯楽施設、現在は体育館が建っていますが、この眼前にある広場で拷問と虐殺が行われたのですね。脇にはその事実を記す碑がたてられています。日本軍・官憲・企業に拉致連行され、見知らぬ国の見知らぬ鉱山で過酷な労働を強制され、命を賭しての蜂起の後、拷問を受け虐殺される… 想像するだに肌に粟が生じます。この慄然たる出来事に対して、誰がどのような責任をとったのでしょう、あるいはとるべきなのでしょうか。中国人労働者が住まわせられた寮の跡地にたてられたという日中不再戦友好の碑を見たかったのですが、見つけられず探索を断念。
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 次に信正寺を訪問、犠牲者の亡骸を葬ったのがここの先代の住職です。そして十瀬野墓地公園にある中国殉難烈士慰霊碑を訪問。合掌。地元の方々が十数人集まり、碑を掃除されている姿が心に残りました。その一方で、この事件を忘れたい、見て見ぬふりをしたいという動きやメンタリティもあるような気がします。郷土博物館の貧弱な展示や、史跡の道しるべや案内地図が皆無であったことがその根拠です。在郷軍人会や消防団も虐殺に関係しているのですから、加害者となった花岡や大館の人々も多いと思います。ご存命かもしれないし、子・孫や縁戚・友人もいるでしょう。しかし二度と過ちを繰り返さないためにも、ぜひ記憶・記録に留める努力をしてほしいと思います。
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 と思いきや、さきほど「保存版ガイド 日本の戦争遺跡」(平凡社新書240)をパラパラとめくっていたら、NPO「花岡平和記念会」が立ち上げられ資料館建設に向けて尽力されていることがわかりました。また花岡川改修工事跡周辺には七つ館坑での出水事故で犠牲となった中国人・朝鮮人・日本人22人の「七つ館弔魂碑」が、信正寺裏手には「華人死没者追善供養塔」がたっているそうです。

●花岡平和記念会
http://www.oodate.or.jp/user/ishida/hanaoka/index.html

 本日の二枚は、共楽館跡と中国殉難烈士慰霊碑です。
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# by sabasaba13 | 2006-01-06 06:39 | 東北 | Comments(0)