伊勢・美濃編(55):明治村(14.9)

 坐漁荘は、最後の元老・西園寺公望が政治の第一線から退いた後、1920(大正9)年に興津の海岸に建てた別邸です。「坐漁荘」の名には"なにもせず、のんびり坐って魚をとって過ごす"という意味がこめられていたが、実際には事あるごとに政治家の訪問を受けざるを得ませんでした。いわゆる"興津詣で"ですね。日本近代史における重要人物ですので、岩波日本史辞典より引用します。
西園寺公望(1849‐1940)、公家出身の政治家。最後の元老。京都生れ。徳大寺公純次男で、西園寺家養子となる。戊辰戦争では会津を攻略。木戸孝允らと交流を深め、邸内に家塾立命館を創設。フランス留学中、パリ・コミューン事件に遭遇、帰国後、中江兆民らと「東洋自由新聞」を創刊。のち文相、枢密院議長を歴任し、伊藤博文の後継者として立憲政友会総裁となる。1906年、第1次西園寺内閣を組織、鉄道国有化など日露戦争後の政情に対応。桂太郎と交互に組閣し、桂園時代とよばれたが、第2次内閣で2個師団増設問題が起り陸軍と対立して退陣、元老となる。19年、パリ講和会議全権を務め、牧野伸顕とともに対米英協調路線をとり、近衛文麿ら革新貴族と見解を異にした。昭和天皇の摂政時代から後継首相の奏薦にあたり、ロンドン軍縮問題後は米英との乖離を危惧、牧野内大臣や一木喜徳郎宮内大臣らとともに軍部や右翼の冒険主義に対抗。しかし満州事変や5.15事件など,相次ぐ謀略やテロにより政党内閣の慣行を維持しえず、高齢を理由に任を辞した。陶庵と号し、興津坐漁荘に引退。
 彼の事跡についてコメントをする力量はとてもありませんが、肝心なところで軍国主義・ファシズムへの動きを抑えられず、その背景には天皇に累が及ばぬようにするという配慮があったのではないかと思っています。徳富蘇峰が彼を評して「彼には三つの"in"がある。intelligence(聡明)、indolence(無精)、indifference(無頓着)」と言ったそうですか、むべなるかな。辞世の言葉は「いったいどこへ国をもってゆくのや」、近衛文麿を首相として推挙したことを最後まで悔やんでいたようです。なおもともとあった興津にこの坐漁荘が復元されたので、興味のある方はぜひ訪れてみてください。
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# by sabasaba13 | 2016-05-15 07:07 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(54):明治村(14.9)

 芝川又右衛門邸は、西宮に大阪の商人芝川又右衛門の別荘として建てられたものです。設計者は武田五一、ヨーロッパに留学した彼は、芝川又右衛門より「洋館」の依頼を受け、ヨーロッパのグラスゴー派やウィーンのゼツェッションと数寄屋など日本建築の伝統とを融合したこの洋館を建てたとのことです。彼の作品とは、京都府立図書館と、熊本大学医学部山崎記念館で出会ったことがあります。
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 蝸牛庵は、幸田露伴が1897(明治30)年からの約10年間を過ごした家です。彼は、やどかりのように幾度となく住まいを変えているので、自分の家を「かたつむりの家(蝸牛庵)」と呼んでいました。なお次女の文はこの家で生まれたそうです。町屋と異なり、まわりの広い庭に自由に延び拡がった建物で、廊下を軸に玄関、和室、付書院のある座敷が千鳥に配されています。露伴に関する史跡では、東京善光寺坂の旧宅跡と、小説『五重塔』の題材となった天王寺五重塔跡を訪れたことがあります。
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# by sabasaba13 | 2016-05-14 06:42 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(53):明治村(14.9)

 八角尖塔が印象的なこの建物は、日本の細菌学の先駆者北里柴三郎が1915(大正4)年に芝白金三光町に建てた研究所の本館です。東大で医学を修めた北里柴三郎はドイツに留学、コッホのもとで、細菌学を研究し、破傷風菌の培養、破傷風の血清療法によって学界に認められました。帰国した翌年、1892(明治25)年に福沢諭吉の後援を得て日本初の伝染病研究所を設立、1914(大正3)年同研究所が東大に移管されると野に下り、辞表を提出した多くの所員と共にこの北里研究所を創立しました。いわゆる「伝研騒動」ですね。彼については、『栄光なき天才たち4』(作・伊藤智義 画・森田信吾 集英社文庫)というたいへん面白いマンガがあります。彼が師である緒方正規の学説を誤りであると指摘したため、帝大医科が猛反発したのですね。以後、帝大医科の重鎮、青山胤道による北里への執拗な嫌がらせが行われました。マンガの中にあった彼の科白です。
 わしは…ドイツで学問する事の素晴らしさを感じとって来たつもりだ… だが戻ってみた日本のありさまはどうだ!? ただただ西欧知識へ追従するのみで科学するという事を知らん! 同じ日本人の能力が信じられずくだらん勢力争いにうつつをぬかすこのありさま。疫病に苦しむ患者を横目に陣取り合戦か!? 泥試合だ! こんなのは…全く泥試合だ!! 知識の風を受けて志高く舞い上がるのが科学者ではなかったのか!? (p.81~2)
 そうそう、文部官僚の某がこんなことを言ったそうです。
 たとえ、孔子様であれ、孟子様であれ、帝国大学を出ていなければ教授にすることはできません。
 北里自身が学んだドイツの研究所に倣い、ドイツバロック風を基調に新時代の様式を加味した建物で、車寄上部には彼が発見した「破傷風菌」と平和のシンボル月桂樹をあしらった紋章が取り付けられています。これは現在も北里学園の校章とされているそうです。
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# by sabasaba13 | 2016-05-13 06:37 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(52):明治村(14.9)

 東松家住宅は名古屋の中心部堀川沿いにあった商家で、油屋・貯蓄銀行を営んでいました。三階建ての塗屋造というのが珍しいですね。江戸時代にはいかに富裕でも武家以外のものが三階建ての建物を造ることは許されず、1867(慶応3)年に なってはじめてこの禁令が解かれました。しかし、1919(大正8)年に市街地建築物法により木造高層住宅が禁止されたので、三階建て以上の木造住宅はわずか50年ほどの間しか造られませんでした。貴重な作例ですね。
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 京都中井酒造は、1864(元治元)年に起きた蛤御門の変で焼失した後に再建されたもの。狭い間口に比べ奥に長い町屋造りで、屋根に緩いカーブを持たせた「起(むく)り屋根」や虫篭窓(むしこまど)がチャーミングです。なお一階正面の目の粗い格子は酒屋格子といって、内側に薄い格子板が添わされていて左右にずらすだけで遮蔽ができるようになっているそうです。
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 安田銀行会津支店は重厚な土蔵造で、お金を守ってくれるという雰囲気を醸し出しています。側面のなまこ壁がいい味です。また入口の柱や石積の腰壁など、洋風テイストももりこまれています。
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 札幌電話交換局は、高価な交換機を火災から守るための石造りです。胴蛇腹に連続して並ぶ円形花紋や、一階と二階の窓の意匠を変えるなど、外観が単調にならぬよう考えられています。
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 京都市電は、1895(明治28)年に開業した日本初の市電。琵琶湖からひかれる疏水の有効的な利用法として日本最初の水力発電がはじまり、その電力を利用したものですね。
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 京都七条巡査派出所は京都駅の近く、西本願寺・龍谷大学の入口角に建てられたもの。木造の建物ですが、当時流行していたレンガ造洋風建築に似せて化粧レンガを張りあげています。ハイカラな雰囲気で、当時は多くの人目をひいたでしょうね。
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# by sabasaba13 | 2016-05-12 06:37 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(51):明治村(14.9)

 三重県庁舎は、間口が54mに及ぶ巨躯で、玄関を軸に左右対称になっており、正面側には二層のベランダが廻されています。竣工は1879(明治12)年、中央政府から任命された県令たちは先を争うようにこうした洋風の新庁舎を建設したそうです。ちなみにこうした様式は当時の官庁建築に典型的なもので、地方行政を仕切っていた内務省庁舎にならったものとのことです。
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 二重橋飾電燈は、1888(明治21)年に設置されたドイツ製ネオ・バロック様式の電燈です。ちなみにエジソンが石清水八幡の竹のフィラメントを使って白熱燈の実用化に成功したのが1879(明治12)年、日本でもいち早く開発・研究に着手され、1887年には東京電燈会社による送電が始められました。当時は、その需要に応じて近くに発電所を設置し、送電していたのですね。
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 鉄道局新橋工場は1889(明治22)年に建てられたもので、国産鉄道建築物の初期例です。中には明治天皇・昭憲皇太后の御料車が展示してありました。
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 千早赤阪小学校講堂は、一階が雨天体操場、二階が講堂となっています。明治中頃から学校教育の中で体操が重視されはじめ、明治後期には体育教育が盛んに行われるようになりました。その際に体操の内容も亜鈴式からスウェーデン式へと変わり、広い体操場が求められるようになったため、こうした建物が各地につくられるようになりました。なお二階には奉安殿があるのですが、建築法規の関係で公開されていません。無念。
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 第四高等学校物理化学教室は金沢にあったもの。近代化を進める明治政府は自然科学を重視し、このような実験ができる教卓を備えた階段教室をつくらせたのですね。なお山田洋次監督の映画『母と暮せば』の冒頭で、長崎医科大学学生である主人公・浩二が被爆死した時に講義を聞いていたシーンはここで撮影されたそうです。明治村の生みの親、谷口吉郎のレリーフもありました。
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 東山梨郡役所の竣工は1885(明治18)年、正面側にベランダを廻らせ、中央棟と左右翼屋で構成する形式は、先の三重県庁舎と同様、当時の官庁建築の特徴です。なお当時の山梨県令藤村紫朗は大変開明的な人物で、地元に多くの洋風建築を建てさせており、それら「藤村式」と呼ばれています。山梨県を漫歩していると、けっこう出会えます。私も、旧睦沢小学校旧舂米(つきよね)学校旧津金学校などを見たことがあります。
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 清水医院は、中山道木曽の須原に生まれた清水半治郎が東京で医学を学んで帰郷し建てた病院。土蔵造りにアーチ型の入口や窓を組み合わせたユニークな建物です。なおこの清水医院には島崎藤村の姉園子も入院しており、彼女をモデルにした藤村の小説「ある女の生涯」では、須原の蜂谷医院とされて当時の様子が記されているそうです。
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# by sabasaba13 | 2016-05-11 06:40 | 中部 | Comments(0)