伊勢・美濃編(12):丸山千枚田(14.9)

 先日読み終えた『カムイ伝講義』(ちくま文庫)の中で、田中優子氏はこう述べられていますが、同感です。
 しかし今の日本人にとっての三・一一は何であったか。自然の脅威ではなく、人間の脅威だったのである。人間が作ったものが制御不能となって人間に牙を剥く。自分のために作ったものが自分を殺す。自然はその力を見せたとしても一時的である。しかしこの人工物は十万年という単位で人類を苦しめる。しかも、カムイの時代の廃棄物が土の力によって再び生産物をもたらすのと違って、核廃棄物は毒をもち続けて何ら生産に貢献しない。単なる困った廃棄物でしかない。そういうものを、人間が作ったのである。
 被災した人々は自力で復興したいと思っても、立ち入りは禁止され、互いに協力はできず、ただ何かを待つしかないのだが、待っても戻れるとは限らない。作った人間も、使った人間も、恩恵を受けた人間も、ただただ制御不可能なのだ。
 そして今、その経験を経ながら、再びその人工物を動かし、どうにもならない廃棄物をさらにためようとしている。カムイの時代のカムイ的なる人々から見ると、現代に生きる日本人は人間としてどうかしているのではないか、あるいは、滅亡に向かいたいのではないか、自滅願望があるに違いない、と思うだろう。
 身分制度下にあった江戸時代の人々であれば、この選択は天皇や将軍や一部の大名の既得権への欲望から出た選択であり、ほとんどの日本人は望んでいないはずだ、と判断するだろう。しかし違う。今の世にはカムイの知らない、全国民規模の選挙制度というものがあり、多くの国民がその道を自ら選んだのである。ある者は能動的に、ある者は選挙権を行使しないことで。どちらにしても、自ら選んだのである。
 江戸時代の人々なら、「ならばきっと、教育や出版の中で充分に情報が行き渡っていなかったのだろう。知識を得る機会がなかったのだろう」と想像するかも知れない。しかし違う。今の人々はあふれる出版物と、世界中の情報と、各国の選択を、誰でも平等にいつでもどこでも獲得し、知ることができるのだ。その上で、あるいはその機会を行使しないことによって、自ら選んだのである。
 この現実をカムイならどう考えるだろうか。カムイは自らの宿命を変えるべく村を去り、忍びとなり、追われながらも自由に向かって生きていた。そういう時代がいつかは変わる、と考えていたかも知れない。しかしなぜ今の日本人は自らを自由の方向にではなく、自滅の方向に向かわせる選択をしたのか? なぜ戦争と核廃棄物に向かって歩いているのか?
 実は私はわからない。その選択をした人たちの気持ちが、わからない。江戸文化を長いあいだ研究してきたのだが、私は今の日本人がわからない。(p.406~8)
 私もわかりません。鎌田慧氏がおっしゃったように、悪政の被害者でしかないはずなのに、権力側の言葉でしかものを考えない市民が増えてきたようです。あるいはジョージ・オーウェル言うところの「愚鈍への逃避」なのか。わかりません。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2016-03-24 06:31 | 近畿 | Comments(0)

伊勢・美濃編(11):丸山千枚田(14.9)

 タクシーに戻ると、運転手さんが、千枚田展望所があると教えてくれました。なんでも、吉野方面へ向かう通り峠の途中にあるそうで、健脚なら20分ほどでのぼれるとのこと。ようがす、行きましょう。車に乗ってすこし戻り、「熊野古道 通り峠」という標識のあるところで下ろしてもらい、しばし待ってもらうことにしました。石畳の山道をのぼっていくと、やがて木の根道となります。そして通り峠と展望所の分岐点に到着、ここから木の階段をえっさほいさと170段のぼります。楽ではありませんがそれほどきつくはない道のりで、二十分ほどで展望所に着きました。眼下に広がる千枚田を一望できる、見事なビューポイントでした。
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 ここにあった解説板を転記しておきます。
 一目千枚といわれている丸山千枚田。
 丸山地区の人たちが一粒でも多く収穫したいとの思いで開墾し、今から約400年以上前の慶長6年(1601年)には既にその数は2240枚になっていました。長い年月と多くの人たちの汗の結晶が目の前に広がる大小の千枚田です。
 この丸山千枚田は、昭和40年代半ばまで維持されてし(ママ)ましたが、その後の稲作転換政策や、過疎化・高齢化の進行にともない、耕作放棄面積が増え、平成初期には530枚(4.6ha)まで減少してしまいました。
 荒廃していく丸山千枚田を憂いだ(ママ)丸山区の住民が「先祖から受け継いだ貴重な資源である棚田を復元し、地域の景観・伝統等を将来に向けて伝承していきたい」という熱意から丸山千枚田保存会を結成しました。行政からの支援を受ながら(ママ)保存会が中心となって復田運動が始まり、5年間で810枚の田を復田し、現在の1340枚となりました。
 ベンチがあったので座って一休み、水を飲み紫煙をくゆらしながら解説にあった言葉を反芻しふと考えてしまいました。「先祖から受け継いだ貴重な資源」「将来に向けて伝承していきたい」 これはこの棚田だけでなく、日本の国土すべてにあてはまる言葉でしょう。過去の人びとから受け継いだ自然環境を、できうればより良い状態にし、最低でも現状のまま、未来の人びとに受け渡す。それが品格・品性というものではないでしょうか。しかし日本の現状を見るにつけても、その品性の下劣さには目を覆いたくなります。核廃棄物を将来の世代に押しつけながら核発電所を乱立し、事故を起こしてもきちんと原因を解明せず誰も責任をとらず、福島を中心に多くの地域が放射能で汚染されているのに住民に対するまともな対応策をとらず、事故をできるだけ過小評価し再稼動に突っ走る。沖縄では、美しい自然を破壊して必要のない辺野古新基地建設を強行しようとしています。自民党・公明党・官僚・財界・学界・メディアの皆々様の頭の中には、「今だけ・金だけ・自分だけ・地位だけ」という言葉が永久運動のようにぐるぐると回っているのでしょう。まるで未来の人びとと、勝率100%の戦争をしているかのようです。"わが亡きあとに洪水はきたれ"ということですかね。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2016-03-23 06:37 | 近畿 | Comments(0)

言葉の花綵137

 仕方がなかったんです。そういう時代でした。皆そんな世界観で教育されていたんです。(アドルフ・アイヒマン)

 無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることができなくなった状態を言う。(ロラン・バルト)

 ほんとうに戦争を知っているものは、戦争について語らない。(『父親たちの星条旗』)

 卒業おめでとうとはいえません。なぜなら、あなたたちは、これから向かう社会で、あなたたちを、使い捨てできる便利な駒としか考えない者たちに数多く出あうからです。あなたたちは苦しみ、もがくでしょう。だから、そこでも生きていける智恵をあなたたちに教えてきたつもりです。(某教授 『ぼくらの民主主義なんだぜ』高橋源一郎)

 社会に溢れる「憎しみ」のことばは、問題を解決できない社会が、その失敗を隠すための必須の品なのだ。(高橋源一郎)

 読書は、人性の全てが、決して単純ではないことを教えてくれました。私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人との関係においても、国と国との関係においても。(美智子皇后)

 だが後進国にあっては、すでに見たごとく真のブルジョワジーは存在せず、存在するのはガツガツした強欲貪婪な、けちな根性にとりつかれた、しかも旧植民地権力から保証されるおこぼれに甘んじている、一種の小型特権層(カースト)である。この近視眼のブルジョワジーは、壮大な思想や創意の能力におよそ欠けていることを露呈する。(『地に呪われたる者』 フランツ・ファノン)

 われわれが目撃するものは、もはやブルジョワ独裁ではなく部族の独裁である。大臣も、官房長官も、大使も、知事も、指導者の種族から選ばれ、ときには直接その一家から選ばれることさえある。こうした血縁型社会は、古い族内婚の掟をとり戻すように見え、そして人は、かかる愚行、かかる詐欺、かかる知的精神的貧困を前にして、怒りというよりは屈辱を抱く。これら政府首脳は正真正銘アフリカに対する裏切者だ。アフリカを、その敵のうちでももっとも怖るべき敵-愚行-に売り渡しているのだから。(『地に呪われたる者』 フランツ・ファノン)

 敵の死骸はいつも芳香を発する。(ウィテルウス)
# by sabasaba13 | 2016-03-22 06:31 | 言葉の花綵 | Comments(0)

『ロイヤル・コンセルトヘボウ オーケストラがやって来る』

 拙ブログで何度か触れたことがありますが、大学時代にオーケストラでコントラバスを弾いていました。もともと高校生の時は、ジャズマンになりたいという夢を持っていました。きっかけは当時、夢中になって読んでいた五木寛之の『青年は荒野をめざす』という小説です。たしか主人公の名前はジュンだと思いましたが、そのかっこいい生き方に惚れ込んでしまった次第です。はじめて買ったジャズのレコードはマイルス・デイビスの『アット・カーネギーホール』、あまり評価されていませんが、よくスイングするクインテットだったと思います。とくにウィントン・ケリーのコロコロところがるようなのりのいいピアノと、ポール・チェンバースの地を揺るがすような重厚なベースに夢中になりました。よし、ベースマンになるぞ、と一念発起、しかし基礎をしっかりとやるべきであろう(私は変なところで堅実なのです)、大学オーケストラに入部してコントラバスの練習に勤しみました。同時にジャズの教則本や理論書を買い込んで独学で学んだのですが…結局ものになりませんでした。即興演奏のなんと難しいことよ。以後、ジャズはもっぱら聴くだけとなり、またオーケストラでコントラバスを弾くことでクラシック音楽の魅力にはまって、今に至ります。今では楽器をチェロに変え、チェリストの末席を汚しております。
 オーケストラの思い出には酸いも甘いもありますが、三:七で後者の方が多いです。前者に関しては、高い技量を持つOBとOGがオーケストラを牛耳っていたことですね。例えば、演奏会の選曲や人選などの決定に、明治の元老の如き発言力をもち辣腕をふるっていました。良い演奏をするためには仕方がないところではありますが、不愉快な思いをいくつか記憶しています。後者については、やはり音楽の素晴らしさを心の底から実感できたことです。思うに、オーケストラというのは、コミュニティとして理想的な集団です。各人がそれぞれ違う音を出す楽器を持ちながらも、合奏をするとひとつの素敵な音楽となる。各人の個性を尊重し、それを活かしみんなで協力して、より大きな良きものをつくりあげる。稀有なる体験でした。

『ロイヤル・コンセルトヘボウ オーケストラがやって来る』_c0051620_6303644.jpg その大好きなオーケストラの演奏旅行を描いたドキュメンタリー映画が上映されていることを新聞で知りました。しかも、アムステルダムのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団! ベルリン・フィル、ウィーン・フィルと並び世界三大オーケストラのひとつに挙げられるオランダ王立のオーケストラです。タイトルは『ロイヤル・コンセルトヘボウ オーケストラがやって来る』。2013年に、創立125周年を記念して行なわれたワールドツアーの様子を、世界屈指のドキュメンタリー作家エディ・ホニグマンが監督した映画です。
 何といっても、彼ら/彼女らが奏でる音楽の素晴らしさ! ブルックナーの交響曲第7番、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、プロコフィエフの「ピーターと狼」、ヴェルディのレクイエム、マーラーの交響曲第2番などなど、ただ聞きほれるだけです。真剣なリハーサル風景や、個別練習の様子、ショスタコーヴィチの交響曲第10番について熱く語るコントラバス奏者など、団員たちの音楽にかける情熱がひしひしと伝わってきます。また、ふつう私たちが知ることができない、団員の素顔や裏方さんたちの仕事も興味深いものでした。遠く離れた家族とインターネットでのやりとり、出身国ウルグアイのサッカー・チームを礼賛するファゴット奏者、なじみの店へのお礼にいきなり店内で演奏をするコンサート・マスター、楽器の運搬・楽譜の準備・ホテルの部屋の割り振りなど縁の下の力持ち的仕事。RCOがちょっと身近に思えてきました。
 そして何といってもこの映画の白眉は、訪れた国・町と、そこに暮らす一人の人間を、深く描いていることです。アルゼンチンのブエノスアイレス、南アフリカのプレトリアとソウェト、そしてロシアのサンクトペテルブルクの三か所ですが、たんなるロード・ムービーには終っていないのはさすがです。
 ブエノスアイレスでは、コンサートを聴きにきたタクシー運転手が登場します。彼はいつも孤独に客を待ちながら、クラシック音楽に慰められているのですね。それを暗示するかのように、冒頭のシーンでは、ブルックナーの交響曲第7番で一度しかない出番を待つ打楽器奏者が「待つことが私の仕事」と語ります。さらに、(たぶん)移動するバスの車中からブエノスアイレスの延々と続く貧民街を写したシーンと(BGMはマーラーの交響曲第1番第3楽章)、その後に出てくる豪華なオペラ・ハウス「テアトル・コロン」と着飾った人びとの対比が、心に残りました。また多くの人名が刻まれたモニュメントを団員たちが訪問し、その一人が「25歳…妊婦」と呟いたのも印象的でした。おそらく軍事政権によるテロの犠牲者を追悼する記念碑だと思いましたが、ちゃんとこうした場所も訪れるのですね。その見識には敬意を表します。なお購入したパンフレットによると、「パルケ・デ・ラ・メモリア プラタ川岸にある記念公園。軍事政権時代に虐殺または行方不明になった人々の名前が記念碑に刻まれている」とありました。『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』(ナオミ・クライン 岩波書店)に以下の記述があります。
 ショック・ドクトリンというレンズを通すと、過去35年間の世界の動きもまるで違って見えてくる。この間に世界各地で起きた数々の忌まわしい人権侵害は、とかく非民主的政権による残虐行為だと片づけられてきたが、じつのところその裏には、自由市場の過激な「改革」を導入する環境を整えるために一般大衆を恐怖に陥れようとする巧妙な意図が隠されていた。1970年代、アルゼンチンの軍事政権下では三万人が「行方不明」となったが、そのほとんどが国内のシカゴ学派の経済強行策に反対する主要勢力の左翼活動家だった。(上p.12)

 「文明社会の良心を掻き乱すこれらの出来事は、しかし、アルゼンチン国民を見舞った最大の苦しみではないし、あなた方が犯した最悪の人権蹂躙でもない。この政府の経済政策こそ、これらの犯罪がなぜ行なわれたかを説明するものであり、何百万もの人々を計画された困難のなかに陥れるという、より重大な残虐行為そのものなのだ。(中略)ブエノスアイレスの街を数時間歩いてみれば、そうした政策によってこの都市が、いかに急速に人口1000万の「スラム街」へと変貌しつつあるかは一目瞭然だ」 (上p.133)

 トマセラはこう主張した。自分や農業連盟の仲間が受けた虐待は、その身体を破壊し、活動のネットワークを破壊することで有利になる巨大な経済的利害と切り離せないと主張した。したがって彼は自分を虐待した兵士の名前を挙げるのではなく、アルゼンチンが経済的に依存し続けることで利益を得る国内外の企業の名前を挙げた。「外国の独占企業はわれわれに作物を押しつけ、われわれの国土を汚染する化学物質を押しつけ、技術やイデオロギーを押しつけます。そしてこれらすべては土地を所有し、政治を支配するごく一部の人々を通して行なわれるのです。でも忘れてはならないのは、彼らのような大富豪もまた同じ独占企業、同じフォード・モーター、モンサント、フィリップ・モリスといった企業によってコントロールされているということです。私はこのことを非難するためにここにやってきた。ただそれだけです」
 会場には割れるような喝采が沸き起こった。トマセラは証言を次のように締めくくった。「最後には真実と正義が勝利すると私は信じています。何世代もの年月がかかるかもしれないし、もしこの戦いのさなかに死ぬことになったとしてもかまわない。でもいつの日か、私たちは必ず勝利します。私は敵が誰なのか知っています。そして敵も私が誰なのかを知っているのです」 (上p.179~80)
 新自由主義(シカゴ学派)勢力による反対派へのテロ、そして絶望的な格差、こういった状況に対して、音楽は、音楽家は何ができるのか。ホニグマン監督はそう問いかけているように思えます。

 南アフリカでは、二人の人物が登場します。ヨハネスブルクのソウェト地区で、レイプや誘拐に怯えながらもスチーム・ドラム・バンドに所属して音楽を支えに生きる黒人の少女。そしてアパルトヘイトの時代に苦労してヴァイオリンを学び、今は貧しい子供たちに音楽を教える黒人の男性。RCOは、そのソウェト・シアターで、貧しい子供たちを対象とした教育プログラムを行ない、プロコフィエフの「ピーターと狼」を演奏します。ピーターが、いろいろな動物たちと協力しながら狼をやっつけるという曲ですが、この選曲にもオーケストラの見識を感じます。敵を見定めること、みんなと協力することの大切さを伝えたかったのではないでしょうか。ラフな服装と愉快な解説とパフォーマンスで、子供たちも大喜びした楽しいコンサートでした。なおアパルトヘイトという「狼」はいなくなったように思いがちですが、実は新たな、そしてより獰猛な「狼」が徘徊していることを、前掲書で知りました。長文ですが、引用します。
 この交渉で、ANCは新たな種類の"網"にからめ取られてしまった。難解な規則や規制でできたこの網は、選挙によって選ばれた指導者の権力を抑制し、制限することを目的にしていた。この網が南アをすっぽり覆ったとき、その存在に気づいた者はわずかしかいなかった。だが新政権が発足し、いざ有権者に具体的な解放の恩恵-つまり、人々が投票によって得られると期待していたものを与えようとすると、網の紐がきつく締まり、政府は自らの権限が大きく制限されていたことに気づいた。新政権発足後の数年間、マンデラ政権の経済顧問を務めたパトリック・ボンドは、当時、政府内でこんな皮肉が飛び交ったと言う-「政権は取ったのに、権力はどこに行ってしまったんだ?」。新政権が自由憲章に込められた夢を具体化しようとしたとき、それを行なうための権限は別のところにあることが明らかになったのだ。
 土地の再分配は不可能になった。交渉の最終段階で、新憲法にすべての私有財産を保護する条項が付け加えられることになったため、土地改革は事実上不可能になってしまったのだ。何百万にも上る失業者のために職を創出することもできない。ANCが世界貿易機関(WTO)の前身であるGATTに加盟したため、自動車工場や繊維工場を出すことは違法になったからである。AIDSが恐ろしいほどの勢いで広がっているタウンシップに、無料のAIDS治療薬を提供することもできない。GATTの延長としてANCが国民の議論なしに加盟した、WTOの知的財産権保護に関する規定に違反するためだ。貧困層のためにもっと広い住宅を数多く建設し、黒人居住区に無料で電気を提供することも不可能。アパルトヘイト時代からひそかに引き継がれた巨大な債務の返済のため、予算にそんな余裕はないのだ。紙幣の増刷も、中央銀行総裁がアパルトヘイト時代と同じである以上、許可するわけはない。すべての人に無料で水道水を提供することも、できそうにない。国内の経済学者や研究者、教官など「知識バンク」を自称する人々を大量に味方につけた世銀が、民間部門との提携を公共サービスの基準にしているからだ。無謀な投機を防止するために通貨統制を行なうことも、IMFから8億5000万ドルの融資(都合よく選挙の直前に承認された)を受けるための条件に違反するので無理。同様に、アパルトヘイト時代の所得格差を緩和するために最低賃金を引き上げることも、IMFとの取り決めに「賃金抑制」があるからできない。これらの約束を無視することなど、もってのほかだ。取り決めを守らなければ信用できない危険な国とみなされ、「改革」への熱意が不足し、「ルールに基づく制度」が欠けていると受け取られてしまう。そしてもし、これらのことが実行されれば通貨は暴落し、援助はカットされ、資本は逃避する。ひとことで言えば、南アは自由であると同時に束縛されていた。一般の人々には理解しがたいこれらのアルファベットの頭文字を並べた専門用語のひとつひとつが網を構成する糸となり、新政権の手足をがんじがらめに縛っていたのだ。(上p.285~6)
 RCOがこの地を選んだのも、こうした問題に関心をもっていたからかもしれません。

 そして最後は、ロシアのサンクトペテルブルクでのコンサートです。ここロシアも新自由主義の餌食にされた国で、ホニグマン監督の強いメッセージを感じます。ふたたび前掲書より引用します。
 エリツィンのクーデター後、IMFのスタンレー・フィッシャー筆頭副専務理事(1970年代のシカゴ・ボーイでもある)は、「あらゆる領域で可能な限り早急に事を進める」よう提言した。当時、クリントン政権下でロシアの政策策定に協力していたローレンス・サマーズ財務次官も同じく、「民営化、安定化、自由化の三つの「促進」をすべて、できるだけ早く行なうべきだ」と助言した。
 だが変化のスピードがあまりにも速すぎて、国民はついていけなかった。多くの労働者は、自分の働く工場や炭鉱が売却されたことすら知らず、ましてやどのような形で誰に売られたのかなど知るよしもなかった(10年後、私はこれと同様の深刻な混乱をイラクの国営工場で目にすることになる)。理論上はこれらの戦略が好景気をもたらし、ロシアを不況から脱却させるはずだった。ところが実際には、共産主義国家がコーポラティズム国家に取って代わられただけだった。にわか景気から利益を得たのはごく少数のロシア人(元共産党政治局員も少なくなかった)と、ひと握りの西側の投資信託のファンドマネージャーで、彼らは新たに民営化されたロシア企業に投資して、目もくらむような利益を手にしていた。(上p.324~5)

 大飢饉や天災、戦闘もないのに、これほど短期間に、これほど多くの人がこれほど多くのものを失ったことはなかった。1998年にはロシアの農場の八割以上が破産し、およそ七万の国営工場が閉鎖、大量の失業者が生まれた。ショック療法が実施される前の1989年、ロシアでは約200万人が一日当たりの生活費4ドル未満の貧困状態にあったが、世銀の報告によれば、ショック療法の「苦い薬」が投与された90年代半ばには、貧困ラインを下回る生活を送る人は7400万人にも上った。ロシアの「経済改革」によって、たった八年間で7200万人が貧困に追いやられたことになる。1996年にはロシア人の25%、約3700万人が、貧困のなかでも「極貧」とされるレベルの生活を送っていた。(上p.335)
 このシーンで登場するのは、スターリンによる大粛清で父を失い、自らもナチス・ドイツの強制収容所を体験した老人です。妻にも先立たれ、うちひしがれた日々を送っている彼が、RCOのコンサートを聴きにきます。演奏されたのは、ヴェルディの「レクイエム」とマーラーの交響曲第2番「復活」。後者の最終楽章では、オーケストラと合唱がきずきあげる音の大伽藍から、「甦るのだ、そう、お前は甦る」というメッセージが響き渡ります。感極まった老人は涙ぐみ…私の涙腺も決壊しました。

 本当に素晴らしい映画でした。音楽で世界を変えることはできない。でも音楽は人間を、何度でも慰め、勇気づけ、甦らせてくれる。そして世界を変えるのは、そうした人間たちなんだ。そんなふうに思いました。
 素敵な音楽と重要なメッセージを贈ってくれたロイヤル・コンセルトヘボウ・オーケストラ(RCO)と、それを見事に映像化してくれたホニグマン監督に心から感謝します。ありがとうございました。
# by sabasaba13 | 2016-03-17 06:32 | 映画 | Comments(0)

『母と暮せば』

『母と暮せば』_c0051620_610786.jpg 山ノ神に誘われて、ユナイテッド・シネマとしまえんで『母と暮せば』を見てきました。なにはさておき、パンフレットの冒頭に掲載されていた山田洋次監督の言葉を紹介します。
 50年以上の間、たくさんの映画を作ってきましたが、終戦70年という年にこの企画に巡り合ったことに幸運な縁と運命すら感じています。井上ひさしさんが、「父と暮せば」と対になる作品を「母と暮せば」という題で長崎を舞台に作りたいと言われていたことを知り、それならば私が形にしたいと考え、泉下の井上さんと語り合うような思いで脚本を書きました。生涯で一番大事な作品を作ろうという思いでこの映画の製作にのぞみます。
 その舞台劇を映画化した『父と暮らせば』も良い作品でした。宮沢りえの最後の科白、「おとったん、ありがとありました」が忘れられません。
 本作は、冒頭の言葉通り、故井上ひさし氏に捧げるオマージュとも言うべき映画です。1945年8月9日、長崎で助産婦をしている福原伸子(吉永小百合)は、たったひとりの家族だった次男の浩二(二宮和也)を原爆で亡くしました。なお夫は肺結核で死去、長男はビルマで戦死しています。それから3年後、伸子の前に浩二の亡霊がひょっこりと現れます。母さんの諦めが悪いから、なかなか出て来られなかったと笑いながら。その日から浩二はたびたび伸子を訪れますが、いつも気になるのは恋人の町子(黒木華)のことです。新しい幸せを見つけてほしい-そう願いながらも寂しい気持ちは母も息子も同じでした。楽しかった家族の思い出話は尽きることがなく、ふたりが取り戻した幸せな時間は永遠に続くように見えたのですが……。

 まず命を生むのを助ける助産婦と、命を奪い尽くす原爆という対比の設定が秀逸ですね。そして主人公・伸子の持つさまざまな顔や、揺れ動く気持ちを、自然に演じ切った吉永小百合の演技には脱帽しましょう。息子への思慕、彼の死への諦観と固執、気丈さと心弱さ、町子への愛情と微かな憎悪。「なぜあなたが死んで、あの娘は幸せになるの」という哀切きわまる科白には胸をつかれました。その町子を演じる黒木華もすばらしい。亡き浩二への思いと同僚への恋心に引き裂かれる若き女性の姿を表現したみごとな演技でした。二宮和也がすこし軽いかなと思いましたが、その軽さが映画全体を明るくもしているので諒としましょう。
 またこの映画を通奏低音のように支える、静謐さにも心打たれました。伸子と浩二が、思い出話を静かに語り合うシーンが好きです。好きな食べ物、蓄音器、学園祭… 浩二が憲兵に連行された時に伸子が本部に乗り込んでとりもどした思い出、その後ふたりで食べたタンメン。何気ないけれど、大事な、幸せだった日常を、二人が慈しむように語り合うシーンが印象的です。その日常を死滅させたのが、アメリカ政府が長崎に投下した原子爆弾でした。「日常を守れ」というのが山田監督のメッセージなのではないかと思います。実は故井上ひさし氏もこう言っています。
 このところわたしは、「平和」という言葉を「日常」と言い換えるようにしています。平和はあまり使われすぎて、意味が消えかかっている。そこで意味をはっきりさせるために日常を使っています。「平和を守れ」というかわりに「この日常を守れ」と。(『ボローニャ紀行』p.357 文春文庫)
 忘れてはならないのは、「原子爆弾はアメリカが投下した」という視点が随所に挿入されていることです。「運命だ」と諦める浩二に対して、「いや違う」と否定する伸子。冒頭のシーンでは、被爆者と思われる初老の男性が、丘から海を眺めながら、「人間のすることじゃなか」と呟きます。
「あなた方アメリカは原子爆弾によって、人々の日常を残虐に破壊した。それは人間のすることではなかった」 これも監督から私が受けとったメッセージです。日本がその非人間性をきちんと批判してこなかったことが、現在における核兵器の拡散、および核兵器は場合によっては使用してもよい兵器なのだという考えにつながっているのではないでしょうか。結果はどうあれ、アメリカ政府に対して、核兵器投下について謝罪を要求すべきだと思います。もちろん、日本が行なったさまざまな戦争犯罪についての謝罪を済ませた後での話ですが。

 なお原爆投下ハゴイ空軍基地エイブル滑走路に関する拙ブログの記事がありますので、よろしければご覧ください。またこの映画の、長崎におけるロケ地ガイドを掲載したサイトもありました。
# by sabasaba13 | 2016-03-16 06:10 | 映画 | Comments(0)