スイス編(31):ベルニナ急行(14.8)

 さて舌鼓を打ちながら作戦会議を開きましょう。指定席を予約した帰りの列車はティラーノ駅14:22発、サン・モリッツ16:39着です。しかし実際にこの眼で見て、アルプ・グリュム駅とオープン・ループ橋では下車して時間をとる価値があると判断。事前に調べておいたオペレーションBを決行することにしました。ティラーノ駅12:50発の普通列車に乗って13:09にブルージオ駅到着。ここで下車してオープン・ループ橋を見物してブルージオ発13:59の普通列車に乗車。事前に調べたところ50分なれば橋まで往復できそうです。そして15:04にアルプ・グリュム駅に到着。ここでも下車して駅周辺を散策して、15:45発の指定席を予約した列車に乗って16:39にサン・モリッツ駅着。グッジョブ!と自画自賛したい計画、ピザを食べるのに余念がない山ノ神も「異議なし」と総会屋のように同意してくれました。でも途中から予約した列車に乗ってよいものか、ま、イタリアだし大丈夫だとは思いますが、念のために山ノ神に駅で確認してもらいましょう。会計はユーロでもスイス・フランでもカードもOK、総額は9.3ユーロ。これは安い、スイスの物価がいかに高いかよくわかります。
 駅の窓口で確認すると問題ないということなので、オペレーションB決行です。発車時刻まで少し時間があるので、近くの店でティラミスをいただきました。ティラーノ駅12:50発の普通列車に乗って、まずはブルージオをめざします。
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 途中でイタリアとスイスの国境を示す看板を視認できました。そして近づくオープン・ループ橋、きたっ。ぐるんパシャぐるんパシャぐるんパシャぐるんパシャぐるんパシャぐるんパシャぐるんパシャぐるんパシャ。何回廻っても楽しいですね。
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 なお普通列車では「リクエスト・ストップ」、つまり車内にある"Stops on request"というボタンを押さないと泊まってくれません。ぐいっと押すと、列車はわれわれ二人だけのためにブルージオ駅で停車してくれました。
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 駅前の道路に出て、線路と付かず離れずの車道を下っていきます。途中に線路沿いの獣道があり、山ノ神はここを行こうと主張。半信半疑だったのですが、まあしかたがない、妻の意見と茄子の花にゃ千に一つの無駄もない。しかし途中でもう先に行けない状態になってしまいました。車道に戻って再び下りていくと、また山ノ神が近くまで行けそうな小道を発見しました。羹に懲りて膾を吹く、こんどは断固として拒否。しかし接近できる道がわからず、結局さきほど山ノ神が見つけた小道を進むと辿り着くことができました。牧場のような草地に円弧を描く見事なループ橋、なんと囲いがされていないので、接近はおろか線路を渡ることさえできます。日本の感覚では理解し難いですね。「線路に石を置くような卑劣漢はスイスにはいない」という意思表示なのでしょうか。アーチ橋を見上げながら、険峻な山岳地帯に鉄道をはりめぐらせたスイス人の不屈の努力と無窮の叡智にあらためて頭を垂れました。
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 解説板に記載してあった時刻表を確認すると、残念ながらしばらく列車は通りません。いつの日にか再訪して、この見事なループ橋をぐるりんと走る列車を見てみたいものです。
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 本日の六枚です。
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# by sabasaba13 | 2015-11-10 06:42 | 海外 | Comments(0)

言葉の花綵129

 頼れる男がいない女は、自転車を持たない魚のようだ。(アメリカ女性解放運動のスローガン)

 古典文学。みんなが褒めたたえ、そして実際にはだれも読まない作品のこと。(マーク・トウェーン)

 忘れるということは、覚えることと同じように大切だ。同じぐらいの集中力がいる。思うに、きちんと忘れるために、きちんと覚える。(アーサー・ビナードが教わったタミル語の先生)

 フンコロガシ一匹だって、それを産み落としたお母さんフンコロガシの目には、ガゼルとおっつかっつに立派に見えるものだ。(ベルベル族の諺)

 断るべきを断らぬは真の男にあらず。(サン=テグジュペリ)

 一度ピストルを持つと、なかなか手ばなせなくなる。一生、ピストルと友達でいなくちゃならなくなるんだ。(『ひょっこりひょうたん島』 マシンガン・ダンディ)

 最初から犬をひっぱたくつもりなら、適当な棒はそこらに見つかる。(アメリカの諺)

 避けられたはずのものが起こってしまった-だからこそ、悲劇なのだ。(マイケル・イグナティエフ)

 あまりの恐怖に駆られると、民衆はいかなる行為にもおよぶ。(マイケル・イグナティエフ)

 「過去と折り合う」とは、過去とまじめに向き合って、明確な意識のもとにその呪縛を解くという意味ではない。それは、むしろ、ページをめくり、できることなら、記憶から拭い去ってしまいたいという願望なのだ。(T・アドルノ)

 ここにもまだ、あの人たちのために立ち上がる人間がいるってこと、見せたかったんだ。(マーチン・モシェク)

 母を持たぬ者だけが母とはなにかを知っている。国を持たぬ者だけが国とはなにかを知っている。(あるタタール人)
# by sabasaba13 | 2015-11-09 07:23 | 言葉の花綵 | Comments(0)

夷酋列像

 9月の五連休に、山ノ神と函館・札幌を旅してきました。函館に一泊して、函館ははじめてという山ノ神を案内して市内と夜景の見物、大沼公園に寄って札幌に移動して二泊。余市のニッカ工場とモエレ沼公園「海の噴水」のライトアップを拝見、という旅程です。さすがに大型連休、往復の航空券も満席寸前でしたが、かろうじておさえることができました。なお往路はエア・ドゥに初搭乗です。わくわく。座席にすわり、機内誌『ラポラ』を紐解くと、「北海道人物伝」という特集記事に"秀作「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」を描き、人々を圧倒した松前藩家老 蠣崎波響(かきざきはきょう)"という見出しがありました。後学のため、転記しておきます。
 北海道南西部の桜の名所、松前町にある法源寺に眠る画人・蠣崎波響が、12人のアイヌの有力者を描いた「夷酋列像」。この原画は長く行方不明だったが、1980年代にフランスのブザンソン美術考古博物館で11点が見つかり、今月北海道博物館で公開される。海を渡った経緯は今も謎のままだ。
 「夷酋列像」は「絹本着色」という、絹地に濃淡の彩色を施す技法が使われていて、1枚のサイズはおよそ縦40cm×横30cm。モデルの人物は一人一人が強い個性を放っている。描かれているのは1789(寛政1)年、アイヌの人びとが幕府や商人たちの圧制に堪えかねて蜂起した「クナシリ・メナシの戦い」の際に、松前藩が鎮圧のため武力などを背景に協力させたアイヌの有力者たち。この戦いの翌年、松前藩主・道廣は、波響に命じて彼らを描かせた。
 波響は松前家の生まれだが、家老の蠣崎家に跡継ぎがなかったため養子となり、生涯家臣として藩を支えた。藩主の道廣は異母兄に当たる。幼少のころから画才が認められ、叔父の勧めで浮世絵や漢詩など、さまざまな文化が花開く江戸へ出て、絵師の建部綾足(あやたり)や宋紫石(そうしせき)、後に大原呑響からも絵を学んだ。また、詩人としても優れた作品を残している。
 「夷酋列像」を完成して以降、他藩の絵師によって模写されるほど、波響の名声は京都や江戸の文化人に瞬く間に広まった。一方松前家は、北方の警備体制について幕府から疑念を抱かれ、1807(文化4)年に奥州梁川(やながわ)へ領地替えとなってしまう。この時波響は大名などからの注文に応じて大量の絵を描いてはその代金で藩の財政を支え、1821(文政4)年、松前家は奥州梁川から旧領松前への復領を果たした。
 晩年の波響は60歳で職を退き、花鳥風月を愛し、好きな絵を描き続けた。かつて京都では円山応挙に学び、酒井抱一、松村呉春、村上東洲らと交遊した波響は、豊かな画風を確立していた。人柄は温かく、野菜を届けてくれた農家へのお礼に、扇面に絵を描いて感謝の気持ちを伝えたという。
 そして一番下に「夷酋列像」が小さな写真で紹介されていたのですが…どこかで見たことがあるぞ。そうだ! 「週刊朝日百科 日本の歴史」で見た覚えがある。不敵な面構えをしたアイヌの長の全身像、今でも網膜に焼きついて忘れられない絵です。ちなみに今、確認したところ、中世Ⅱ‐④「海 環シナ海と環日本海」(p.5-125)に掲載されています。ただし「市立函館図書館蔵」と記してあるので、模写のようですね。その「夷酋列像」のオリジナルが里がえりして今年の4月にオープンした北海道博物館で展示されているとのことです。へえー、見てみたいなあ、でもマニアックな絵だしなあ、山ノ神が同意してくれるかなあ、と二の足を踏んでしまいました。
 ところが天は私を見離さず、札幌のホテルで、朝に放映された「日曜美術館」(だったと思いますが)でこの絵が紹介されたのです。「すごい絵ねえ」と感心する山ノ神、やった、さっそく機内誌で仕込んだ知識を伝授、彼女もいたく興味をもったようで、本日の午後に余市から戻った後に北海道博物館を訪れることになりました。すぐにフロントに行ってインターネットで所在地とアクセスを確認、「北海道開拓の村」の近くなので何とかなりそうです。
 午前中にニッカウヰスキー余市蒸留所を見物。そして様々な悲劇や喜劇やすったもんだがあったのですが、それは後日に上梓するとして、北海道博物館に辿り着けました。予想以上の混雑でしたが入場制限もなく、じっくりと拝見することができました。前述のように、「クナシリ・メナシの戦い」の際に、松前藩が鎮圧のため武力などを背景に協力させたアイヌの有力者たちの肖像です。威風堂々とした風貌、頑強な体躯、鋭い眼光、豪華な蝦夷錦、思い思いのポーズをとる十二人の長たちとのご対面です。弓をひくシモチ、槍をもつイコトイ、鹿を背負うノチクサ、犬を連れたポロヤ、子熊を連れたイニンカリ、巨躯のツキノエ… その圧倒的な存在感を、あますところなく活写した波響の筆の冴えにも脱帽。そして何よりも胸を打たれたのは、アイヌに対する畏敬の念が絵にほとばしっていることです。未開な民族として侮蔑し見下す視線は、片鱗も感じられません。彼らを頤使した松前藩の威光を世に知らしめるために、実見以上に立派に描いた可能性もあるでしょうが、絵を見ているととてもそうは思えません。アイヌたちを対等な人間として描ききった波響に敬意を表したいと思います。ほんとに見にきてよかった。

 なお気になる点がひとつあります。実は2013年に納沙布岬を訪れたときに、「寛政の蜂起和人殉難墓碑」という碑に出会いました。碑文を転記します。
 寛政元(1789)年5月、国後島とメナシ(現在の標津町付近)のアイヌの人々が、当時この地域の場所請負人であった飛騨屋久兵衛の支配人らに脅かされて、僅かな報酬で労働を強いられ、やむなく蜂起し和人七十一人を殺害した。
 松前藩は、ノッカマップ(根室半島オホーツク海側)にアイヌの人々を集め蜂起の指導者三十七人を処刑した。このできごとは、"寛政クナシリ・メナシアイヌ蜂起"と称されている。
 この墓碑は、死亡した和人七十一人の供養のために文化9(1812)年に造られたと刻まれているが、誰がどこで造り、どこに建立しようとしたか、なぜ浜に打ちあげられていたかは、明らかではない。おそらく海上輸送の途中で船が難破し海中に没していたものと推定される。
 それが、造られてから丁度百年後の明治45年、納沙布岬に近い珸瑤琩の港で発見され、現地墓地入口に建立されていたが、昭和43年、国後島を望むこの地に移設したもので、当時の歴史を物語る重要な史跡である。
 この「クナシリ・メナシの戦い」については、観光案内所でもらったパンフレットに詳しい説明がありましたので、こちらも紹介します。
 蜂起直前のクナシリ・メナシ地方のアイヌたちは、過酷で強制的に働かされ続け、さらに番人の暴力、脅迫が続き、いつ何が起こっても不思議ではないという状況となっていました。そんな中、1789年(寛政元年)に国後島のサンキチが病気になり、和人から酒をもらって飲んだところ死んでしまいました。その後サンキチの弟マメキリの妻が和人から食べ物をもらい食べたら死亡し、アイヌの人々は毒殺されたと思い、国後や対岸の目梨(標津付近)にいた飛騨屋の家人や松前藩の役人達を次々に殺しました。蜂起したアイヌの人々は130人、殺された和人は71人にのぼりました。
 これを知った松前藩は260人の侍をノサップ岬に近いノツカマップに派遣しました。ノツカマップの大首長シヨンコやクナシリの大首長ツキノエ、アッケシの大首長イコトイらが松前藩に協力的であったため、松前藩との前面衝突は避けられましたが、戦いに関わった指導者ら37人がノツカマップで処刑されました。
 そう、どう見ても非は和人のほうにあります。しかしツキノエ、イコトイら大首長たちは松前藩に協力して仲間を見殺しにしてしまった。犠牲を最小限にするための苦渋の選択だったのか、松前藩による狡知なdivide et impera(分割統治)策によるものなのか、あるいは自己の利益のためにすすんで走狗となったのか。絵に描かれた、一抹の翳りのない威風堂々とした姿の内には、どのような思いがあったのでしょうか。気になるところです。
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# by sabasaba13 | 2015-11-08 06:24 | 美術 | Comments(0)

棄民

 共産党員ではありませんが、『しんぶん 赤旗』を愛読しています。権力に媚びを売り、あるいはその膝下に屈し、あるいはその*を嘗めるメディアが腐臭を放ちながら横たわるなか、大事な情報を伝えてくれ、かつ自民党・大企業・官僚を舌鋒鋭く批判してくれる稀有なる新聞です。他にも『DAYS JAPAN』、『週刊金曜日』、『東京新聞』、『沖縄タイムス』、『琉球新報』も信頼でき、かつ応援したいメディアです。
 さてその日曜版(2015.10.25)に次のような見出しがおどっていました。「消える介護施設」、「認知症の母どうすれば…」、「9年通ったデイサービス閉鎖」、「安倍政権 "介護離職ゼロ"というが」、「介護報酬引き下げで倒産激増」、「国に「つぶれろ」と言われたと思った 閉鎖した事業者」、「相次ぐ事業所"身売り"」、「これでは介護業界そのものが淘汰される」。
 介護報酬引き下げによって、とくに小規模デイサービスが打撃を受けているとのことです。職員の非常勤化、職員給与や給食などサービスの見直し、入所者の受け入れ制限などの対策に追われ、それでも持ちこたえられずに倒産に追い込まれる。東京商工リサーチによると、今年1~9月の倒産件数は57件に達して昨年の年間件数をすでに上回り、これからも増える可能性があると見通しています。あるケアマネジャーの話によると、認知症の方は環境の変化に弱く、施設が変わると確実に状態が悪化するそうです。
 また2014年6月に成立した医療・介護総合法では、要支援の人を介護保険サービスから除外し、特別養護老人ホームの入所規準も要介護1以上から同3以上に限定したとのこと。介護を必要とする弱者は切り捨て・見殺しですか、安倍伍長。これを「棄民」と言わずして何と言えばいいのか。「安全保障安全保障安全保障」と壊れた蓄音器のように繰り返しておられますが、私たちの「安全」ではなく、自民党・公明党・大企業・官僚の「安全」を保障するということなのですね。だったら、マニフェストに「弱者を見殺しにして強者を優遇します」と掲げればいいのに。ほんとうに下劣な政権です。もちろん、自民党・公明党に投票した方、棄権した方にも大きな責任があるのですが。
 なお同紙で、共産党の小池晃副委員長が鋭い指摘をされているので、引用します。
 財源はあります。今回の介護報酬引き下げで削減された国費は1130億円ですが、一方、トヨタ自動車1社への研究開発減税だけでも13年度で1200億円。たった一つの自動車会社への減税と同規模です。
 大企業に対する行きすぎた減税を改めれば介護を充実する財源は十分出ます。…
 安倍政権は「1億総活躍」と言いながら、実際に進めるのは大企業だけが活躍できる社会です。
 へえー、脱北者ならぬ脱トヨタ者である元社員が「プチ北朝鮮ですよ」と評したあのトヨタを、自民党・公明党政府はそんなに優遇しているんだ。詳細は『トヨタの闇』(渡邉正裕・林克明 ちくま文庫)を読んでいただきたいのですが、労働者の過重労働、海外工場での現地人労働者への酷使と虐待で、しこたま稼いでいる典型的なブラック企業です。やれやれ、介護を必要とする方や労働者を見殺しにし、只管大企業の利益に奉仕する日本国政府。"棄民"(※「強者のために弱者を犠牲にすること」と定義しておきます)というのは、この国の近現代を理解するためのキーワードだと考えていますが、しっかりと歴史を検証し、その責任者にきっちりと落とし前をつけさせなかったツケがまわってきたわけですね。そうじゃありませんか、中国人強制連行を立案・実施した岸信介商工大臣のお孫さん。

付言1 税金を払わない大企業のえげつない実態を知るには、『税金を払わない巨大企業』(富岡幸雄 文春新書)がお薦めです。
付言2 この問題については朝日新聞(2015.10.25)も取り上げてくれました。
# by sabasaba13 | 2015-11-07 06:30 | 鶏肋 | Comments(0)

スイス編(30):ベルニナ急行(14.8)

 列車は左へ右へとカーブを繰り返しながら、森を抜け、石橋を渡り、山を駆け下りていきます。
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 やがて三つの塔がある町が見えてきましたが、あそこがポスキアーヴォ(Poschiavo)ですね。ガイドブックによると、まだ国境を越えていませんがすでにイタリア語圏だそうです。おっ、ラブリーな転車台があるぞ、パシャ。でも一本の線路の上の回転板、何のために使うのでしょう?
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 ポスキアーヴォ湖を左に眺めながらしばらく行くと、観光客を満載した無蓋の客車とすれちがいました。いいなあ、乗ってみたいな。ガイドブックによると、夏場の天気の良い日に最後尾に連結される展望車で、切符を持っていればその場で乗れるそうです。
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 ブルージオ(Brusio)駅を過ぎると、いよいよお待ちかねのオープン・ループが近づいてきました。わくわく。高低差を克服するために、山の中腹から円弧を描く石橋を下りて地表に到達するというとてつもない代物です。乗り鉄・撮り鉄としては絶対に外せない一押しの物件です。なお時計方向に進むので、右側の席だとループ橋をよく眺めることができるという情報を得ています。隣の席のお父さんをこちらの窓にお招きして、二人でカメラを構えシャッター・ボタンに指をかけました。呆れたように見つめる妻たち。わくわく。きたっ。ぐるんパシャぐるんパシャぐるんパシャぐるんパシャぐるんパシャぐるんパシャぐるんパシャぐるんパシャ。あー楽しかった面白かった。握手して健闘を讃え合う、子ども心を失わぬ二人でした。この橋はぜひ至近距離で見てみたいものです。
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 気がつけばすでに国境を越えており、イタリアに入国していました。いちおうパスポートは持ってきましたが、提示を要求されることはありませんでした。アイベックスのぬいぐるみを売るに働くおじさんと記念撮影をして(買わないで御免ね)、しばらくするとそろそろ終着のティラーノです。道のど真ん中をごろごろと路面電車にように走り、12:02にティラーノ(Tirano)駅に到着です。約二時間半の愉しい鉄道旅行でした。
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 日本人家族とはここでお別れです。なおこちらの駅構内にも、日本語で「ティラノ 寄贈 姉妹鉄道 箱根登山鉄道株式会社」と表記された看板がかかっていました。外へ出て駅舎と、ユネスコ世界遺産プレートを撮影して、駅前にあったレストランでピザ・マルガリータとビール、紅茶をいただきました。
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 本日の四枚です。
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# by sabasaba13 | 2015-11-06 06:32 | 海外 | Comments(0)